戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
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0127
ブログ毎日書こうとか書いても毎日書けてやしない。
願望なのか、目標なのか、意志なのか、あいまいになっていた。
1日1回はブログを書けるような精神状態に戻りたいという願望を、実際に満たす努力をする代わりに、願望の言葉に閉じ込めたのだろうか。
80のしんどいことを否定せず、それでも20の黄金を信じる。配分の変化に開かれていて、かつ、手段を伴った目標を持つ。
いまやろうとしていることは、「演出家の発した言葉を具体的に体現する」こと。なにを今更?
願望なのか、目標なのか、意志なのか、あいまいになっていた。
1日1回はブログを書けるような精神状態に戻りたいという願望を、実際に満たす努力をする代わりに、願望の言葉に閉じ込めたのだろうか。
80のしんどいことを否定せず、それでも20の黄金を信じる。配分の変化に開かれていて、かつ、手段を伴った目標を持つ。
いまやろうとしていることは、「演出家の発した言葉を具体的に体現する」こと。なにを今更?
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0125
学習塾の仕事を終えて大学で稽古。
院生の時には入ったことのない建物が稽古場だった。
気分はなぜだか少し軽くなっている。
なぜだか、というのは嘘で、心当たりはある。
私の意志だけは、私だけのものだ。
院生の時には入ったことのない建物が稽古場だった。
気分はなぜだか少し軽くなっている。
なぜだか、というのは嘘で、心当たりはある。
私の意志だけは、私だけのものだ。
0124
ちょっとだけでもいいから、できるだけ毎日ブログを書こうと思います。
きっとこの場と、だまって読んでくれる人たちと、たまにコメントをくれる人は、わたしをじわっとゆるめてくれる、小さい小さい光のような、わたしにとって、かすかな確かなよりどころになっている。
最後のオフは、芝居を見て、なんやかんやで共演者と長く過ごした。
最近のわたしは、とても欲張っていたのではないかと思った。
新しい人たちと新しいことをすると、自分が知らなかった様々な黄金が目に入ってくる。
目移りして、欲しくなって、うずうずして、手をのばして、ぎこちなくて、その体験も新しくて。
でも、わたしの資質にはちゃんと限界があって、それを度外視すると残念なことになる。
却って、本当に欲するものを満たせなくなってしまっているんでないかと思う。
このへんのさじ加減、ほんとうに難しい。
少しでも気を抜くと、そうでなくとも気がつくと、すぐに意味が抜けてしまっている。
実家に帰ったついでに、ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」を引っこ抜いて読んだ。
前のわたしが好きだったものが、見え方は当時と異なっていても、今のわたしも依然として好きだということを確認できたのが、
とても嬉しかった。
きっとこの場と、だまって読んでくれる人たちと、たまにコメントをくれる人は、わたしをじわっとゆるめてくれる、小さい小さい光のような、わたしにとって、かすかな確かなよりどころになっている。
最後のオフは、芝居を見て、なんやかんやで共演者と長く過ごした。
最近のわたしは、とても欲張っていたのではないかと思った。
新しい人たちと新しいことをすると、自分が知らなかった様々な黄金が目に入ってくる。
目移りして、欲しくなって、うずうずして、手をのばして、ぎこちなくて、その体験も新しくて。
でも、わたしの資質にはちゃんと限界があって、それを度外視すると残念なことになる。
却って、本当に欲するものを満たせなくなってしまっているんでないかと思う。
このへんのさじ加減、ほんとうに難しい。
少しでも気を抜くと、そうでなくとも気がつくと、すぐに意味が抜けてしまっている。
実家に帰ったついでに、ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」を引っこ抜いて読んだ。
前のわたしが好きだったものが、見え方は当時と異なっていても、今のわたしも依然として好きだということを確認できたのが、
とても嬉しかった。
0123
「ひどい顔してるけど大丈夫?」と、演出助手の方と同居している祖母に立て続けに言われた。ということは、相当ひどい顔をしてるんだ。自分ではよくわからないが、顔には出るたちなので、自覚が足りないだけなのだろう。
一番消耗するのは人と関わること、そして人と関われないこと。
昨日は共演者の方と稽古後にご飯を食べていたら終電を逃して、家に泊めて貰う。翌日午前からの抜き稽古では稽古の間に演出を体現するまで落とせず、ぐったりしながら夜の稽古を迎えたり、人と人が関わっているのをぽけらんと眺めていたりする。コンタクトレンズの着けすぎで目がしょぼしょぼしたり、段ボールハウスの本を読んだりしながら2日振りの家に帰り、職場で貰った蜜柑が10個以上残っていたのをまとめて平らげた。
町田駅前で路上演奏しているのをよく見かける、ロス・アウキスというグループが気になっている。耳だけでなく皮膚まで使って感じる音楽。それから小沢健二の復活ライブは嬉しい知らせで、公式サイトの読み物も気になっているが、ディスプレイ上で長い文章を読むのが苦手で二の足を踏んでいる。
芝居も心理の仕事と同じように、きちんとお金がもらえるわけではないが、自分で望んでやっている、そしてクリエイティブな作業とコミュニケーションを必要とする、「仕事」だと思った方がぴったりと嵌るような気がした。それと関連して、私は米光一成さんの言葉をもっと腑に落としたい。
金曜日に何度目かのカウンセリングを受けて、僕の色々なところを振り回している要因についての言葉を貰った。それは多分欲しかった言葉で、だけど聞きたくなかった言葉で、感謝を抱くと同時に、狡いなあという気になった。
一番消耗するのは人と関わること、そして人と関われないこと。
昨日は共演者の方と稽古後にご飯を食べていたら終電を逃して、家に泊めて貰う。翌日午前からの抜き稽古では稽古の間に演出を体現するまで落とせず、ぐったりしながら夜の稽古を迎えたり、人と人が関わっているのをぽけらんと眺めていたりする。コンタクトレンズの着けすぎで目がしょぼしょぼしたり、段ボールハウスの本を読んだりしながら2日振りの家に帰り、職場で貰った蜜柑が10個以上残っていたのをまとめて平らげた。
町田駅前で路上演奏しているのをよく見かける、ロス・アウキスというグループが気になっている。耳だけでなく皮膚まで使って感じる音楽。それから小沢健二の復活ライブは嬉しい知らせで、公式サイトの読み物も気になっているが、ディスプレイ上で長い文章を読むのが苦手で二の足を踏んでいる。
芝居も心理の仕事と同じように、きちんとお金がもらえるわけではないが、自分で望んでやっている、そしてクリエイティブな作業とコミュニケーションを必要とする、「仕事」だと思った方がぴったりと嵌るような気がした。それと関連して、私は米光一成さんの言葉をもっと腑に落としたい。
金曜日に何度目かのカウンセリングを受けて、僕の色々なところを振り回している要因についての言葉を貰った。それは多分欲しかった言葉で、だけど聞きたくなかった言葉で、感謝を抱くと同時に、狡いなあという気になった。
0118
いま、今度出演する芝居の稽古がまさにダイナミックに動いているところ。
言葉未満のものが日々、滾々もりもりと湧き出ぢていて、言葉が出てこない。
稽古に必死になっている、のかもしれません。
だからいつも以上にぐじゃらぐじゃらなことを書きます。
***
わたしは信じるということを純粋な意味ですることがとても苦手なので、現時点でこの芝居のことを自信を持って人に薦めるには、がんばって嘘をつかねばならない。正直なところ、面白くなりそうな期待も、つまらなくなってしまいそうな不安も入り混じった、混沌とした今の心情は、お誘いメールに載せるには重量オーバーだ。
私はこの芝居をもっともっと面白くしたいし、この芝居をもっともっと面白くしたい人たちが集まってこの芝居を作っていると思うのだけど、それはあくまで個人的で内輪な話で、お客さんにする話ではないと思う。
「見てください!」とは言えない。
「見てほしい」ってことも、正直あまりない。
演劇作品に限らず、「ありとあらゆるものごとの価値は受け手の肉体、つまり関心に依存する」ということを主張する、構成主義とやらから派生した構造構成主義という考え方に一昨年の僕はメロメロにされてしまっていて、それは今でも大きく僕の中に居座っている。
僕がこの芝居を面白いと思うことと、それを具体的や抽象的な誰かに見てほしいと思うことや、誰かがこの芝居を見て面白がるだろうと思うことは、僕の中であんまり繋がっていない。
だから、面白いと思ってもらおうと思ったら、芝居になんか誘えやしない。
たぶん、面白くなかったときも含めて、そこからでもコミュニケーションを続けられるつもりがあるならば、きっと誘えばいいんだろう。
なんか公演参加者に読まれたら怒られそうだなこれ。
言葉未満のものが日々、滾々もりもりと湧き出ぢていて、言葉が出てこない。
稽古に必死になっている、のかもしれません。
だからいつも以上にぐじゃらぐじゃらなことを書きます。
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わたしは信じるということを純粋な意味ですることがとても苦手なので、現時点でこの芝居のことを自信を持って人に薦めるには、がんばって嘘をつかねばならない。正直なところ、面白くなりそうな期待も、つまらなくなってしまいそうな不安も入り混じった、混沌とした今の心情は、お誘いメールに載せるには重量オーバーだ。
私はこの芝居をもっともっと面白くしたいし、この芝居をもっともっと面白くしたい人たちが集まってこの芝居を作っていると思うのだけど、それはあくまで個人的で内輪な話で、お客さんにする話ではないと思う。
「見てください!」とは言えない。
「見てほしい」ってことも、正直あまりない。
演劇作品に限らず、「ありとあらゆるものごとの価値は受け手の肉体、つまり関心に依存する」ということを主張する、構成主義とやらから派生した構造構成主義という考え方に一昨年の僕はメロメロにされてしまっていて、それは今でも大きく僕の中に居座っている。
僕がこの芝居を面白いと思うことと、それを具体的や抽象的な誰かに見てほしいと思うことや、誰かがこの芝居を見て面白がるだろうと思うことは、僕の中であんまり繋がっていない。
だから、面白いと思ってもらおうと思ったら、芝居になんか誘えやしない。
たぶん、面白くなかったときも含めて、そこからでもコミュニケーションを続けられるつもりがあるならば、きっと誘えばいいんだろう。
なんか公演参加者に読まれたら怒られそうだなこれ。