戯言ヲトメツバキ(完)
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1007
同居中の祖母でない方の祖母からチケット貰って歌舞伎を観に行った。
昔言葉は殆どわかんねいが、それでも読み取ろうとする意図を持てるかどうかが重要なのだと思った。お客様にならずに、主体的にその空間に参加すると言い換えてもいい。芸術作品を鑑賞したり、本を読んだり、なんらかのサービスを受けたりするときに、いつの間にか自分が受動的に固まってしまって精神的に貧しくなることがよくあるが、それは意識して意図的に外せるようになりたい。
関連して、「本ばかり読んでるとバカになる」という記事が秀逸でお勧め。
殆どわかんねい言葉と言えば、幼児とのコミュニケーションを連想する。
昨日の記事を冷めた目で見て、自分のブログの使い方はツイッターに近いんだろうなと思う。でも携帯で文字を打つのはダルすぎるのでやれない。近い過去を想起して再構築するという要素も外せないらしい。
「新しい労働社会」は期待通り面白そうだが、僕のこの分野の知識が乏しすぎて言葉の意味がわからない。本を人に薦めるときに、その人の知識と関心に応じて紹介ができるととても素敵だと思う。本の感想を、私の知識量と関心の方向性と絡めて書けるようになりたい。あ、これは、欲望だ。
1006: ひどい文字の
これでクロッキー帳とシャーペンという、もう1つの思考装置も奪われたら、僕はあっという間に混乱に陥るだろう。
なんて脆弱。
でも、この弱さを生きているのが僕だ。
そして、この弱さの幾分かを克服しようと欲望するのも僕だ。
ドライブが足りないからって、焦りで補わないように。
僕がこれまでに出会った、格好いい女性たちと格好いい男性たちを想う。あのこもあのこもあのひとも、あのひとも、本っ当に、格好良かった(今の僕のボキャブラリでは、「格好良かった」としか言えないや)。
黙っていればいいものを、こうやって吐き出してしまうのも、焦りに流されていることなのかな?よくわからない。
ど、どっ、ぷぇ、えふ、ふ、ふが、かた、かつ、かっ、たちーに、形。にして、ふぇふぇずるおっふふ、整理して、形を成して、みみずみたくのたうちまわった汚い色の水は無しにして、もうやめよう。そうやめよう。
先日の週末、父親とだいぶ長く話した。
内容は、ノルウェーの犯罪者更生システムだとか、日本の雇用形態だとか、動物研究の成果を人間行動に分析に応用しようとしている学者の話だとか。
「粘性」という言葉が気になった。それは会社に人が集まる凝集性という意味で父親が使っていたのだけど、僕はむしろ、記憶の土壌としてその言葉を使いたい。
言葉もアナログを。本の読み方もアナログを。でも目盛りは持っておいて、最適な目盛りに合わせることもできるといい。
台所を綺麗にして、鍋で「グツグツ」を作った。
「英語テスト作成の達人マニュアル」(靜哲人)は読み終わった本でとても面白かった本。著者は心理測定学の理論を修めているのだろうが、そっちの理屈の話は出てこずに、「どうすれば良い英語のテストを作れるか?」というシンプルで魅力的な目的のためにこの本はできている。その手段がとても具体的に書かれているのも素晴らしい。深く広い経験を抽出した理論はとても地に足がついていて土の味がする。
「新しい労働社会」(濱口桂一郎)はこれから読もうとしている本。
1004
祖母のPCから更新している。操作しづらい。
僕にとってブログを書くことは歯を磨いたりゴミを捨てたりするのと同じく、日常のホメオスタシス維持に一役買っているので、それが塞き止められるとなんだか落ち着かない。緩やかに頭の中が濁ってくる。
もっとも、酸素が止められた脳の回路が急速に使いものにならなくなって、なおかつ不可逆的に壊れてしまうのと比べたらだいぶ可愛いもんだ。
金曜日は来年からの職場の内定式に出席して、先輩達に歓迎会を開いてもらったり、未来の同期と話をしたりした。
Something new, something stressful、てな感じだ。
その翌日は療育センターのボランティアだったのだが、朝からイライラして非常によろしくなかった。
水の通う回路は熱湯。
結局、日が暮れてから1時間くらい散歩をして、ダイソーとブックオフで小銭を放出して、ようやく落ち着いた。
最近オノナツメの漫画にはまっている。特に「リストランテ・パラディーゾ」と、続編の「Gente.」がとても気になっている。本質的なことをものすごく端的に突いていて、思わずハッとさせられるような台詞が沢山出てくる。
資格試験まで4週間を切ったが、自信を持てるような分野がまだひとつもないのはとてもまずい。
久々にアニメイトに入って、化物語のキャンペーンをやっていたので、なにかグッズのひとつでも買ってやろうと思ったのだが、結局何も買わなかった。好きな作品なのに、物欲が全然沸いてこない。
そもそも何かをどうしても欲しいと思ったことがほとんどない。「欲してはならない」という禁止令が僕の中に存在しているのだろうかカッコ笑い。
ぎゃふん
0930b
火曜日は児童福祉施設での勤務だったのだが、
そこの朝礼で講話をせねばならないという大変な日だった。
飲み会で「面白い話」をしろと言われると瞬時にフリーズする僕が、
なにをどうすれば30人の子どもたちに話を聞かせられるというのか!
と、せんせんきょうきょうとしていた。
少しでも受けるかなと思い、どこぞの芸人風にスケッチブックを使うことにして、
100均で買ったはいいものの、当日の朝まで真っ白でどうしようかと思った。
ところが。
意外と反応がよく、ざわついていたものの、みんな良い姿勢で最後まで聞いてくれた。
しかもそのあとで先生や子どもから、「良かったですよ」と言ってもらえたりして、すっかりその日は軽躁状態だった。(父親もそうなのだけど、僕は褒められるのに本っ当に弱い。)
普段は基本軽く鬱入ってるような僕が、こんな風に時々軽躁が続くことがある。
この軽躁というもの、普段の状態と比べると一長一短で、明らかに検討能力が落ちる一方、普段ならためらってしまうようなことについて、勢いでやってしまえることがある。
今は意図的にできない状態のスイッチがもう少しコントロールできるようになったら、軽躁くんが普段の弱点を補うべくいい働きをしてくれるんではないかいうくだらないことを考えた。
(2)
水曜日は参宮橋で勉強会があった。
「生きることと死ぬことについて」というテーマの話があり、若者に聞いてもらいたいということだった(スピーカーはおそらく40代の女性)のだが、正直ピンと来なかった。
若者がみなそうだとは限らないが、今の僕に関して言えば、死について考えるということは、この「ピンとこなさ」について向き合うことがどうしても必要となる。
質疑応答で発言していた人たちはみな、周りの人の死にまつわる体験などを元に意見を交換していたが、その経験が僕にはない。正確に言えば、なけなしの経験は語れるような形になっていない。
3歳の頃に亡くなった父方の祖父。小学校のときに白血病で亡くなったクラスメート。遠くへ引っ越す友人から貰ったのに放置して死なせてしまったペットのカメ。スキーの最中に事故で亡くなった父親の会社の同僚。大学1年の夏に病気で亡くなった母方の祖父。同じく大学1年のときに亡くなった同級生の母親。いくつもの墓参りと法事。いくつもの舞台上で死ぬ人たち。時折「私が死んだら~」「私はもう長くないのだから~」という話をする同居中の祖母。
死にまつわるこれらの体験について、僕は何が語れるのかわからない。スピーカーの方は、若者に何を期待してこの発表をしたのかな。
いつかくる時のために、準備をしておけ、ということ、なのかなあ。
あーあ。
(0)
あの人が欲していたのは、一緒に遊ぶ人なんかじゃあなくて、
もっと全然違うもの、だったのかもしれないなあ、なんて、ぼんやりと思う。
ブログに書いてある、あの人のほんの一部だけを知ってわかった気になって、
検討外れの勘違いをする自分がとても嫌だったから、最近読むのをやめていた。
そうしたら、どっかへ行ってしまった。