戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
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0930: 目に見えないものを測る
今日は誰かさんの誕生日。
はてなアンテナが便利すぎてやばいと思う。
「仕事の距離感と恋愛の距離感を誤解しない」
(オタク商品研究所plus -結婚できない人達-より)
距離感の概念があまり発達してないと、1元的に潰してしまいこれらを区別できない。
関連性の薄い連想だけど(つーか全然関係ないか)、わたし、心理学における官能評定の方法論の確立と、官能評定のトレーニングのための方法論の確立をもっとしっかりやるべきだと思う。
「マニュアルに則れば誰にでも実施できる」ものしか研究の方法論として認めないという、自然科学ですら成立しないおかしなドグマが心理学の狭くない世界ではびこっている。
成果物の評価以外に「研究能力を評定する」という発想がそもそもあまり存在しない。
心理学周辺の研究法では、統計→多変量解析→質的と関心をスライドさせてきたが、いま一番しっかり学びたいと思っているのは、心理測定法。テストや質問紙を作る際にベースとなる理論とその変遷について。
臨床家の中では当たり前に使っているテストが外からはクソの様に叩かれてる件について、心理士の端くれとしては「そうだよね」とか「見逃して」とか「ちょっと待てよ」とか、なんにしろ自分の意見を持っておきたいと僕は思う。
物理的な締め切りが一通り通り過ぎて、ようやく特定の人に向けた言葉を紡げる精神状態になった気がする。
はてなアンテナが便利すぎてやばいと思う。
「仕事の距離感と恋愛の距離感を誤解しない」
(オタク商品研究所plus -結婚できない人達-より)
距離感の概念があまり発達してないと、1元的に潰してしまいこれらを区別できない。
関連性の薄い連想だけど(つーか全然関係ないか)、わたし、心理学における官能評定の方法論の確立と、官能評定のトレーニングのための方法論の確立をもっとしっかりやるべきだと思う。
「マニュアルに則れば誰にでも実施できる」ものしか研究の方法論として認めないという、自然科学ですら成立しないおかしなドグマが心理学の狭くない世界ではびこっている。
成果物の評価以外に「研究能力を評定する」という発想がそもそもあまり存在しない。
心理学周辺の研究法では、統計→多変量解析→質的と関心をスライドさせてきたが、いま一番しっかり学びたいと思っているのは、心理測定法。テストや質問紙を作る際にベースとなる理論とその変遷について。
臨床家の中では当たり前に使っているテストが外からはクソの様に叩かれてる件について、心理士の端くれとしては「そうだよね」とか「見逃して」とか「ちょっと待てよ」とか、なんにしろ自分の意見を持っておきたいと僕は思う。
物理的な締め切りが一通り通り過ぎて、ようやく特定の人に向けた言葉を紡げる精神状態になった気がする。
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0928
ぱつんぱつんなデイズ。
現在の課題を生じさせる環境(主に仕事)ってのは大体自分自身で決めたものだが、これに適応するのがギリギリ。
日曜日に駒場で東京ビッチ第二作「The Shining Goldfish」という芝居を観たが、あまりにも面白すぎて逆に何も書けなかった。
同じ日に早稲田でシアターハウスbanban「彼女は彼女である」という芝居も観たが、こっちはある女優さんのクセのある声がとても好みで、作演の人も趣味なのだろうと思った。
こんな風に遊びまくっているから、そして仕事が遅いから、その上やたら眠るから、おまけに細部に拘るから、結果として常に締め切りに追われる状態なんだろう。
東京では公開が今週一杯のセンコロールも明日観に行くつもりだ。
でもこの、「ギリギリなんとかやっていけてる(つもりの)状態」っていうのは、「環境への適応」という観点からして、結構なマジョリティを占めるパターンなんじゃなかろうかと最近思っている。
ホメオスタシスのことを延々と考えていたら、適応の対象である「環境」に関心がスライドしてきたのだ。DSMでは割と記載が簡潔だった印象のあるテキオウショウガイは、心理屋にとってはもっと中心に据えていい概念かもしれない。(そして俺が読み流してただけでもっと詳しく書いてあったかもしれない。でもそんなに多くを求めるのは筋違いだろう。)
人は変えられない環境に直面して、適応すべく中身を変えるのだし、変えられる環境を操作することによって、間接的に望ましい方向へと自分の中身を変えるのだ。
前述した「The Shining Goldfish」は、歪んだ家族を舞台にして、それぞれの登場人物の「過去の適応の試み」と「現在における適応の試み」が生々しく表されていた。適応するためにみんなすごい必死で、だから観てる方は目が離せなくなる。こんな芝居を作りたいと思った。
「環境への適応」の環境が対人環境だと、適応ということが反応になるのだろう。コミュニケーション論とか、あるいは演技論に近づいてくる。舞台上で共演者に反応するということ。「相手の話を聞いていない」という態度は常に間違いなのでなく、目の前の相手以上に圧倒される何かへ必死に適応しようと反応している場合はそれが成立するということを、この芝居で気づかされた。重要なのは、「広い意味で」外部環境に反応し続けていること。
わずかな余裕を持つところまで含めた回路を回したいと思うのだが、それはなんちゅうか、ないものねだりなのかなあとも思う。どうせ時間が余ったって、やりたいことはいくらでもあるのだからそちらに注いでしまうのだろう。壁を組み立てる必要がある。大事なのは目標の明確化。欲しいものはなんですか。
その他雑記。(1)安藤裕子が凄い気になっている。(2)読書メーターは漫画を含めるとグダグダになるので仕切りなおそう。(3)相手のことをちゃんと考えながら、自分の好きという気持ちをこの世で成立させられるようになりたい。だからそれは環境を整えるのが大事なんだけど、そのためには一にも二にも度胸が必要なんだろう。
現在の課題を生じさせる環境(主に仕事)ってのは大体自分自身で決めたものだが、これに適応するのがギリギリ。
日曜日に駒場で東京ビッチ第二作「The Shining Goldfish」という芝居を観たが、あまりにも面白すぎて逆に何も書けなかった。
同じ日に早稲田でシアターハウスbanban「彼女は彼女である」という芝居も観たが、こっちはある女優さんのクセのある声がとても好みで、作演の人も趣味なのだろうと思った。
こんな風に遊びまくっているから、そして仕事が遅いから、その上やたら眠るから、おまけに細部に拘るから、結果として常に締め切りに追われる状態なんだろう。
東京では公開が今週一杯のセンコロールも明日観に行くつもりだ。
でもこの、「ギリギリなんとかやっていけてる(つもりの)状態」っていうのは、「環境への適応」という観点からして、結構なマジョリティを占めるパターンなんじゃなかろうかと最近思っている。
ホメオスタシスのことを延々と考えていたら、適応の対象である「環境」に関心がスライドしてきたのだ。DSMでは割と記載が簡潔だった印象のあるテキオウショウガイは、心理屋にとってはもっと中心に据えていい概念かもしれない。(そして俺が読み流してただけでもっと詳しく書いてあったかもしれない。でもそんなに多くを求めるのは筋違いだろう。)
人は変えられない環境に直面して、適応すべく中身を変えるのだし、変えられる環境を操作することによって、間接的に望ましい方向へと自分の中身を変えるのだ。
前述した「The Shining Goldfish」は、歪んだ家族を舞台にして、それぞれの登場人物の「過去の適応の試み」と「現在における適応の試み」が生々しく表されていた。適応するためにみんなすごい必死で、だから観てる方は目が離せなくなる。こんな芝居を作りたいと思った。
「環境への適応」の環境が対人環境だと、適応ということが反応になるのだろう。コミュニケーション論とか、あるいは演技論に近づいてくる。舞台上で共演者に反応するということ。「相手の話を聞いていない」という態度は常に間違いなのでなく、目の前の相手以上に圧倒される何かへ必死に適応しようと反応している場合はそれが成立するということを、この芝居で気づかされた。重要なのは、「広い意味で」外部環境に反応し続けていること。
わずかな余裕を持つところまで含めた回路を回したいと思うのだが、それはなんちゅうか、ないものねだりなのかなあとも思う。どうせ時間が余ったって、やりたいことはいくらでもあるのだからそちらに注いでしまうのだろう。壁を組み立てる必要がある。大事なのは目標の明確化。欲しいものはなんですか。
その他雑記。(1)安藤裕子が凄い気になっている。(2)読書メーターは漫画を含めるとグダグダになるので仕切りなおそう。(3)相手のことをちゃんと考えながら、自分の好きという気持ちをこの世で成立させられるようになりたい。だからそれは環境を整えるのが大事なんだけど、そのためには一にも二にも度胸が必要なんだろう。
0926: 語る背中に至る道
菩薩くんと飲んだ。
彼が言う、「よい歳の取り方をして30を越えた女性はものすごく素敵だけど、そういう人には必ず素敵な旦那さんがいるから恋愛にならないのだ」という話は、具体的に挙げた女性の例とあいまって、前半についてはなるほど、なるほど。なるほど!なるほどー!と思った。
彼は戦略が必要だという。戦略を立てろという。俺には戦略が足りないのだという。そうだと思う。レンジの短さが僕の世界を狭めてる。
ね、明日っから
ね、じゃなくて今から 始められるはずさ
だって今日はまだ終わっちゃないから
彼が言う、「よい歳の取り方をして30を越えた女性はものすごく素敵だけど、そういう人には必ず素敵な旦那さんがいるから恋愛にならないのだ」という話は、具体的に挙げた女性の例とあいまって、前半についてはなるほど、なるほど。なるほど!なるほどー!と思った。
彼は戦略が必要だという。戦略を立てろという。俺には戦略が足りないのだという。そうだと思う。レンジの短さが僕の世界を狭めてる。
ね、明日っから
ね、じゃなくて今から 始められるはずさ
だって今日はまだ終わっちゃないから
0925: 胸ヤケ
肺活量が落ちていて、すぐに息切れする。
これはそのまんまの意味でもそうだし、比喩的な意味でもそうだ。
甘いものが欲しくなるが、摂取するごとに体が重くなる感じがする。
手足をばたばたさせても、胴体は意外と動いていないもの。
昨日も今日も、いい天気。
いや今日は、昼間は暑かったけれど、夜はとても空気が水っぽくなっていた。
雨の降る予感だけをさらして、実際には降りやしない。
そういう、想像力というものは、舞台にとってすごく大事だと思う。
こゆび侍の「はちみつ」という芝居を観た。
題名通り、ベタベタに濃縮された甘さが跋扈する芝居。
この発狂しそうな感じは、芝居でなければそんなに感じなかったろう。
ナマということは、そういうことなのだな、と思った。触感に訴える。
あと女性の描き方にものすごい脚本家の拘りを感じた。
それから佐藤みゆきさんの背筋の伸び具合が半端ない。
多様性を許容する社会を作る。
昔から現代にかけて眺めてみると、明らかに価値観は多様化してるのだろうけれど、だからといってそれが許容されているかというとそうではなく、昔とは別の形で淘汰はかかっていると思う。
私が仕事に1本を通すとしたら、そのあたりはいかがかとふと思った。
空気読めない人も、そこそこ幸せに生きられる社会を。
ただし現状オール肯定かというと、そんなことではきっとない。
学会以降、これからどんな仕事をしていくか≒どう生きていくか、を考えている。
職場の同僚のある人が、そして全然別のとある友人が、たまたまなのか最近、
どう生きていくか、ということについて語るのを聞く機会があった。
お金になる仕事と、お金にならない仕事。
それは便宜上そう呼んでいるだけで、本質的なところはよそにある。
そして、それらの両方をやることが大事なのだと言うことを、
「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」という本から教わった。
考えて、動く。
昨日は同僚の1人と食事をして、リリーフランキーと多面性の話とかをした。
そのあと町田で院の同期と飲んで、研究の話で熱くなったら露骨に嫌な顔をされた。
今朝は個別支援計画を朝イチで送ったあと力尽きて昼まで寝ていた。
睡眠を貪るという言葉があるが、私はなんだか睡眠の過食症みたいだ。
過眠症というニュートラルな言葉があるにも関わらず食のアナロジーを使いたがっているのは、過食症という名称が単なる大食いではなく、代償行為としての制御不能という意味をまとっているからだと思う。
これはそのまんまの意味でもそうだし、比喩的な意味でもそうだ。
甘いものが欲しくなるが、摂取するごとに体が重くなる感じがする。
手足をばたばたさせても、胴体は意外と動いていないもの。
昨日も今日も、いい天気。
いや今日は、昼間は暑かったけれど、夜はとても空気が水っぽくなっていた。
雨の降る予感だけをさらして、実際には降りやしない。
そういう、想像力というものは、舞台にとってすごく大事だと思う。
こゆび侍の「はちみつ」という芝居を観た。
題名通り、ベタベタに濃縮された甘さが跋扈する芝居。
この発狂しそうな感じは、芝居でなければそんなに感じなかったろう。
ナマということは、そういうことなのだな、と思った。触感に訴える。
あと女性の描き方にものすごい脚本家の拘りを感じた。
それから佐藤みゆきさんの背筋の伸び具合が半端ない。
多様性を許容する社会を作る。
昔から現代にかけて眺めてみると、明らかに価値観は多様化してるのだろうけれど、だからといってそれが許容されているかというとそうではなく、昔とは別の形で淘汰はかかっていると思う。
私が仕事に1本を通すとしたら、そのあたりはいかがかとふと思った。
空気読めない人も、そこそこ幸せに生きられる社会を。
ただし現状オール肯定かというと、そんなことではきっとない。
学会以降、これからどんな仕事をしていくか≒どう生きていくか、を考えている。
職場の同僚のある人が、そして全然別のとある友人が、たまたまなのか最近、
どう生きていくか、ということについて語るのを聞く機会があった。
お金になる仕事と、お金にならない仕事。
それは便宜上そう呼んでいるだけで、本質的なところはよそにある。
そして、それらの両方をやることが大事なのだと言うことを、
「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」という本から教わった。
考えて、動く。
昨日は同僚の1人と食事をして、リリーフランキーと多面性の話とかをした。
そのあと町田で院の同期と飲んで、研究の話で熱くなったら露骨に嫌な顔をされた。
今朝は個別支援計画を朝イチで送ったあと力尽きて昼まで寝ていた。
睡眠を貪るという言葉があるが、私はなんだか睡眠の過食症みたいだ。
過眠症というニュートラルな言葉があるにも関わらず食のアナロジーを使いたがっているのは、過食症という名称が単なる大食いではなく、代償行為としての制御不能という意味をまとっているからだと思う。
0923
ものすごく抽象的なことを雑然と書いたものです。
昨日まで無駄にちょっと寂しがっていたのが、肉野菜炒めを食べたら元気になって、それがふわふわしていて散漫に何か言葉を吐き散らしたいと言っています。僕は自分に甘々なのでその通りにさせてやりました。こういう、ロールシャッハ片口式なら形態水準マイナスプラスな言動が多くを占め、それなのにそれゆえにそれに固着することが、僕のパーソナリティのかなり多くを特徴づけているんじゃないかと思います。病的だけれど元気です。野菜ってすばらしい。
自分が何をやりたいのかよくわかってない僕は、自分が何をやりたいのかをよくわかることを目的としよう。
自分が何をやりたいのかを自覚することを大きく肯定する価値観は、普通に考えれば否定しようもない。僕も9割以上は同意できるのだが、若干のひっかかりが残る。それが単純に僕の新しいものへのビビりから来ているのか、それとももうちょっと一般化できる意味を持つのかはよくわからない。
大きなことをする場合には、大抵いくつかの段階というものがあって、それぞれの段階同士でやることがまるっきり正反対だったりすることもある。ある段階で上手く行ったことにこだわりすぎてしまうと、それが次の段階への移行を妨げ、全体としては停滞を生じさせるということも多々ある。だからこれは大きな視点と小さな視点の問題と考えることもできる。
わからないことを洗い出す段階もあれば、わからないことを保留する段階もあれば、わからないことを捨てる段階もあれば、わからないことを潰す段階もある。いつでも通用するような黄金律などそんなに沢山はない。ただし、いつでも通用黄金律の価値は中身自体というよりも、頭の中を節約できるというところにある。頭の容量は下に書くように多い方がいいし、少ないと厳しいし、増やせるものなら増やしたいのだが、そう簡単に増えてはくれないので、現実的に多少適合性が悪くても黄金律を採用することは充分に有効なやり方だ。しかしそれを「当たり前」にしてしまうと、不適合に接触した他者がものすごく不快感を感じる。
心理面接をするときに「頭の中を複雑にしておくことが大事だ」と言っていたのは神田橋先生だったか不確かなのだが、頭の中(前意識)に何かを持っておいて、必要に応じてすぐに思い出せるようにしておくとか、ある刺激に対して特定の反応ができるようなギミックを意図的に持っておくことはもっと一般的に大事なことだろう。共有しやすいのは目に見える行動だが、本態はそれを生み出すひとつ前の状態にある。チェルフィッチュの岡田さんが、「ことば」より前にあるものとして挙げていたのはなんだったっけ。
自閉的傾向を持つ人は、選択的知覚を柔軟に使うことを苦手とするので、そこにあってもまったく見えなかったり、そこら中のものが見えまくって洪水が起きたりする。後者と注意欠陥傾向の注意転導性とは、客観的事象や有効な支援法について共通点はあるものの、相違点もあるため区別して考えるとよい。
こういう風に吐き出したものの中に、僕が大切にすべきものが含まれているのは絶対にそうだと思うのだけど、あまりにも不純物が多すぎるのでこのままでは使えない。そして僕はこの次にするべき精製の作業が苦手で、それをしないままこのブログに書きっぱなしにしている。時間が経って冷め、今の自分と距離ができたものを改めて精製することは、すぐに手をつけるのと比べていくつかの利点といくつかの不利点がある(デメリットの適切な和訳が分からない。欠点・短所・損失はどれもピンと来ない)。この作業。この作業。
昨日まで無駄にちょっと寂しがっていたのが、肉野菜炒めを食べたら元気になって、それがふわふわしていて散漫に何か言葉を吐き散らしたいと言っています。僕は自分に甘々なのでその通りにさせてやりました。こういう、ロールシャッハ片口式なら形態水準マイナスプラスな言動が多くを占め、それなのにそれゆえにそれに固着することが、僕のパーソナリティのかなり多くを特徴づけているんじゃないかと思います。病的だけれど元気です。野菜ってすばらしい。
自分が何をやりたいのかよくわかってない僕は、自分が何をやりたいのかをよくわかることを目的としよう。
自分が何をやりたいのかを自覚することを大きく肯定する価値観は、普通に考えれば否定しようもない。僕も9割以上は同意できるのだが、若干のひっかかりが残る。それが単純に僕の新しいものへのビビりから来ているのか、それとももうちょっと一般化できる意味を持つのかはよくわからない。
大きなことをする場合には、大抵いくつかの段階というものがあって、それぞれの段階同士でやることがまるっきり正反対だったりすることもある。ある段階で上手く行ったことにこだわりすぎてしまうと、それが次の段階への移行を妨げ、全体としては停滞を生じさせるということも多々ある。だからこれは大きな視点と小さな視点の問題と考えることもできる。
わからないことを洗い出す段階もあれば、わからないことを保留する段階もあれば、わからないことを捨てる段階もあれば、わからないことを潰す段階もある。いつでも通用するような黄金律などそんなに沢山はない。ただし、いつでも通用黄金律の価値は中身自体というよりも、頭の中を節約できるというところにある。頭の容量は下に書くように多い方がいいし、少ないと厳しいし、増やせるものなら増やしたいのだが、そう簡単に増えてはくれないので、現実的に多少適合性が悪くても黄金律を採用することは充分に有効なやり方だ。しかしそれを「当たり前」にしてしまうと、不適合に接触した他者がものすごく不快感を感じる。
心理面接をするときに「頭の中を複雑にしておくことが大事だ」と言っていたのは神田橋先生だったか不確かなのだが、頭の中(前意識)に何かを持っておいて、必要に応じてすぐに思い出せるようにしておくとか、ある刺激に対して特定の反応ができるようなギミックを意図的に持っておくことはもっと一般的に大事なことだろう。共有しやすいのは目に見える行動だが、本態はそれを生み出すひとつ前の状態にある。チェルフィッチュの岡田さんが、「ことば」より前にあるものとして挙げていたのはなんだったっけ。
自閉的傾向を持つ人は、選択的知覚を柔軟に使うことを苦手とするので、そこにあってもまったく見えなかったり、そこら中のものが見えまくって洪水が起きたりする。後者と注意欠陥傾向の注意転導性とは、客観的事象や有効な支援法について共通点はあるものの、相違点もあるため区別して考えるとよい。
こういう風に吐き出したものの中に、僕が大切にすべきものが含まれているのは絶対にそうだと思うのだけど、あまりにも不純物が多すぎるのでこのままでは使えない。そして僕はこの次にするべき精製の作業が苦手で、それをしないままこのブログに書きっぱなしにしている。時間が経って冷め、今の自分と距離ができたものを改めて精製することは、すぐに手をつけるのと比べていくつかの利点といくつかの不利点がある(デメリットの適切な和訳が分からない。欠点・短所・損失はどれもピンと来ない)。この作業。この作業。