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 0823: ドリフト

また、ふらふらと過ごしてしまった。
動く歩道に乗っているみたいに、自分の行動が自分以外のものによって決まってしまっていて、自動的に進行しているような週末だった。

こないだカネコくんがこんなことを言ってくれたな。
「思ってることがあったら、言った方がいいっすよ。」
彼はすごい。
シンプルな言葉を、ドンピシャのタイミングで言う。

くだらんことを思いついた。
カムヰのwebを更新することが、僕にとって、直接赤い子に話しかけられない、その代わりとしてのアピールという意味があるのだとしたら、
理由はどうあれ事実として3週間もwebが更新できないことに対して、なにか自分の力が弱められたような感じがして、それは恥の感覚を伴うもので、だから僕は少し苛々しながら主宰の彼に電話をかけたりしたのかしら。

こういうシロウト分析は、
自分ひとりだったり、気の置けない友人たちと、互いを材料にしてやるんだったらまだ害悪も少ないのだが、そこにいない他人をマナイタにのっけて、ゴシップの種にするために使うのは、非っ常にくだくだらない。
昨日は友人の誘いを断って自主勉強会に行ったのに、後輩のなんとかくんとか、なんとか先生のことを延々と話して、そんなことで時間が潰れてしまった、ということがあった。なんだよと呆れたし、お前らそれでいいのかよと怒りも感じたのに、それをしっかりと言葉にすることもできず、ちょっとクサってみたり、緩やかに自己破壊的になったりする形で防衛するしかない自分が情けなくもなった。こうやって俺はストレスを殆ど自分に向け替えてしまうんだな。
最近、ナンシー・マックウィリアムズちゅう分析系臨床家の訳本を夢中になって読んでいるので、こういうシロウト分析がすごくやりたくなっている。人にやったとしても、それを口にする愚行を犯さないように、気をつけなければならない。特に心理以外の人には。

世界がどんなにすばらしくても、自分のカパシティが上がらないと、いつまでも取りこぼしてばかりだなあ。
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 0821: スーパーなんちゃら現象

昨日、今日と名古屋旅行に行っていたはずだったのだが、わけあって来週に後倒しになった。
その間東京でなにをしていたかというと、塾の授業プランを考えたり、キャッチセールスの人と話したり、ダイソー行ったり、ブックオフ行ったり、芝居を観たり、芝居の稽古を覗いたり、ツタヤでCDを借りたりしてた。なぜかわからんけどダルーくて、授業プラン以外はめちゃくちゃ無気力な過ごし方をしてしまった。

後倒しになった理由というか、そもそも旅行先に名古屋を選んだ大きな理由が、イトコが名古屋で働いているからで、顔を見に行こうということだったのだ。しかし俺が日程の連絡入れるのが遅すぎてイトコの予定が既に埋まっていたというマヌケな真似をしでかし、1週間あとに変更になった。
それが自分としてはかなり恥ずかしく、仕組みが分からなくて新幹線のチケットが取れなかったとか、そういう別の微妙な嘘をつこうかとも思ったのだが、あまりにも意味がないし、意味のない嘘などついても疲れるだけなのでやめ、ちっぽけな恥をさらすことにした。チャンチャン。

最近見た舞台は、初期型「POP」、青年団若手自主企画「昏睡」、贅沢な妥協策「巨人は熟睡中」。
PPTゲストのハセガワアユムさんの話を聞いて、MUの芝居が観たくなる。
最近読んだ漫画は、小花美穂「この手をはなさない」「POCHI」、魚喃キリコ「南瓜とマヨネーズ」。
なぜか南瓜をキュウリと読んでしまう癖がある。
借りたCDは、スガシカオ「FUNKAHOLIC」、山﨑まさよし「IN MY HOUSE」、RIP SLYME「JOURNEY」、GReeeeN「塩、コショウ」。
前三者はお気に入りのヘビロテ常連アーティスト、グリーンは友人のお奨めで未知数。
最近買った本は、「Step by Step遅れている子どもを育てる ことば」「新 臨床心理士になるために 平成21年度版」。
前者は「かず」とセットで買った。指導案の例が具体的に書かれていてとても参考になる。

タツオくんと、「身を削るという役者の性質」について、ちょっとだけ話した。彼の愛しさを、ウザキャラ以外で舞台に乗せる方法はないもんかなあ。絶対あるはずなんだ。
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 0819

欲張らないことと、欲張ることは、両方必要で、それゆえに、
それぞれ難しいのが、さらに難しい。
欲張らないことについては時々できていると感じられることもある。
しかし欲張ることは、ほとんどの場合、抑えてしまうか歪んでしまう。
反省はしても後悔しないほど欲張れたことは、中学以降あっただろうか?


「僕はそういう、なんでもかんでも恋愛感情で説明しちまう風潮ってのは、あんまり好きじゃないんだよ」
(アニメ化物語 第7話より)
そだね。
感情をありふれたラベルで名づけてしまうのは、思考停止の温床だ。
僕の色や形がわからなくなるし、僕に足りないものも見えなくする。


「男も知っておきたい骨盤の話」(寺門琢己)をざっと読んだ。
男性にも約4週間の周期があるとかなんとか。
まだ実感は無いけれど、意識してみたらなにかが見えるかもしれない。


渋谷のブックオフで「ヘテロセクシャル」「チワワちゃん」「ROCK」を読んだ。
ヘテロ~とチワワ~は短編集。
チワワ~の表題作とROCKは面白かったな。どちらも主人公が素敵。
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 0816b


090731
(前略)
会うという行為は、人間にとってとても大切なのだ。
(中略)
少ない情報から勝手に想像をふくらませて、
相手の心を決めつけてはいけないのだ。
(後略)
「ストレートガール」作者、鞘マモルさんのブログより

090814
(前略)
私は、(恋愛でなく)興味を持ったひとに対して、まずなんの接触もしない。好きだなという部分と、これはどうよひくわまじきめえという部分をみつける。で、しばらくして接触を試みる。盛り上がったりときめいたり、それは束の間で、もう次にはそのひとの、まえからどうだろうそれはないだろう痛いなきもいな、ひくわあと感じている部分がすごく気になる。距離が近づくからますますよく見える。吐きそうなほどに。

すぐに伝えることはない。(中略)

で、我慢ならなくなって、私がそのひとに、クッション置いたり置かなかったりオブラートに包んだり包まなかったりで気になることを言う。指摘する。揶揄する。

するともう、相手絶望、「嫌われた」と思い込み泣いたり騒いだり固まったり。「あなたに言われるようなことじゃない」「関係ない」もしくはほかのひとにかばってもらったり、えんえんしくしくしにたいようなどなど。

ちーがーうーのーにー。疲れる。
(後略)
「吠えてるんじゃなくて ないてるんだ」寿儀さんのブログより

(前略)
この本は、読者自身の心が容認する程度にしか役に立たないでしょう。人は、自分の個人的な心の動きを通して受容できた程度に応じてのみ、他者の心の動きを共感と尊敬をもって認識することができるのです。
(後略)

「パーソナリティ障害の診断と治療」(ナンシー・マックウィリアムズ)より

100回読みたい文章。分かるまでとりあえず10回は読むつもりで。

自分にできないことをやれていて、それによって生じる反発も受け止めて生きている人を尊敬する心を忘れないようにしよう。やっぱり僕は弱い人間で、「そういう人もいるよね」「あれはあれで問題だよね」などの言い訳をこしらえて、劣等感や失敗体験を覆い隠そうとする。あるいはもっと単純に意識の外に締め出そうとする。だからこれは宣言。どうせすぐにまた忘れそうになる近い未来の僕にこのことを思い出させるリマインダー。だったらもっと目立つところに置けばいい。その通り。
「僕はこのブログで普段思うところを素直に言葉にしている」なんて幻想を時々自分でも本当だと勘違いしてしまうこともあるけど、もう絶対にそんなことはありえないのであって、書きたくないことは全然書いてないし、書くのが難しいことは全然書けてない。あらゆる表現の中で、あるいは僕の使えるあらゆる言葉の中で、このブログは1本の筆のようなものであって、それですべての絵を描こうとするには無理がありすぎる。ブログを描くことが慣習になり、かつ、他に文章表現の場がない今みたいな状況では、そういうことがつい抜けてしまう。
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 0816

世の中にはわからないことがあまりにも多すぎる。
だからこそ生きてて面白いことがたくさんあると思うのだけれど、それでもやっぱり、このわからなさに打ちのめされたり、途方にくれたりする。
世界を拡げるための燃料にはレシピがある。決まったやり方があるならそれをやる、怖気づくようなことでもやってみる、明らかだと思うことでも疑いを持ってみる、そしてそれでも揺らがないものを持つ。

言葉にして以来、明らかに脳内での比重は増えているとはいえ、赤くて赤いことばかり考えて生きるのはあまりにも格好悪いと僕は思う。僕のやりたいことのほとんどは、幸いというか生憎というか、やはりというか、他人がほとんど絡んでこない。ところが他人と関わることというのは、いきなりやろうと思ってできるもんじゃない。

沈黙の意味を、怒っているのかとか、困っているのかとか、優先順位が下がっているのかとか、色々と考えてはみるけれど、結局本人に確かめないとわかりゃしない。

誰かになにかを思われたくて、僕の気持ちがあるわけじゃない。だから誰が評価しようがしまいが、好きなもんは好きだし、怒れないもんは怒れないし、面倒なものは面倒臭い。だけども気持ちなんてものは人とのやり取りで刻一刻と変化しうる。変わるもんかとラベルだけに固執し続けるのもやりがちな残念なこと。言葉に振り回されそうなときは、根っこに帰って確認しよう。それは1人で見つけられるとも限らない。そんな時は人を頼れるようになりたい。



・・・いやいやそれってもっと根本的な問題なんじゃないの?つまり、「僕は本当に欲してはいないのか?」ということ。脚本の構造について書かれた本なんかを読むと、常に変化を引き起こすアクションとか、何かを手に入れたい欲求とそれを妨げる障害との葛藤によって脚本はできているとか書いてある。僕が大事にしたがっていることは、世界に何も引き起こさない。自分1人で完結してる。だから世界と繋がらない。他人と繋がらない。そうじゃないの?
だから感情なんてものは基本的に自己完結的に成立するようにはできてなくて、だから沸いてきた感情は常にそれを外から歪めたりゴリゴリと削ったりする圧力の洗礼を浴びなければならないのではないか?時には真剣に、時には無責任に投げかけられる、「それで結局君は何がしたいの?」「それってヤリたいだけなんじゃないの?」といった言葉に対して、「いやそんなことねーよ」「確かにそうかも」「ちょっと待てふざけんなてめえ」といった風に応戦していって、元の気持ち”候補”は現実との折り合いがつくような形に精製されていく。それを避けてるものは、結局シャーレの中でしか生きることはできなくて、つまり他人に届けることができない。正確には届けようとしたときに圧倒的なアルコール臭が付随して気分を萎えさせる。
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