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 0816

世の中にはわからないことがあまりにも多すぎる。
だからこそ生きてて面白いことがたくさんあると思うのだけれど、それでもやっぱり、このわからなさに打ちのめされたり、途方にくれたりする。
世界を拡げるための燃料にはレシピがある。決まったやり方があるならそれをやる、怖気づくようなことでもやってみる、明らかだと思うことでも疑いを持ってみる、そしてそれでも揺らがないものを持つ。

言葉にして以来、明らかに脳内での比重は増えているとはいえ、赤くて赤いことばかり考えて生きるのはあまりにも格好悪いと僕は思う。僕のやりたいことのほとんどは、幸いというか生憎というか、やはりというか、他人がほとんど絡んでこない。ところが他人と関わることというのは、いきなりやろうと思ってできるもんじゃない。

沈黙の意味を、怒っているのかとか、困っているのかとか、優先順位が下がっているのかとか、色々と考えてはみるけれど、結局本人に確かめないとわかりゃしない。

誰かになにかを思われたくて、僕の気持ちがあるわけじゃない。だから誰が評価しようがしまいが、好きなもんは好きだし、怒れないもんは怒れないし、面倒なものは面倒臭い。だけども気持ちなんてものは人とのやり取りで刻一刻と変化しうる。変わるもんかとラベルだけに固執し続けるのもやりがちな残念なこと。言葉に振り回されそうなときは、根っこに帰って確認しよう。それは1人で見つけられるとも限らない。そんな時は人を頼れるようになりたい。



・・・いやいやそれってもっと根本的な問題なんじゃないの?つまり、「僕は本当に欲してはいないのか?」ということ。脚本の構造について書かれた本なんかを読むと、常に変化を引き起こすアクションとか、何かを手に入れたい欲求とそれを妨げる障害との葛藤によって脚本はできているとか書いてある。僕が大事にしたがっていることは、世界に何も引き起こさない。自分1人で完結してる。だから世界と繋がらない。他人と繋がらない。そうじゃないの?
だから感情なんてものは基本的に自己完結的に成立するようにはできてなくて、だから沸いてきた感情は常にそれを外から歪めたりゴリゴリと削ったりする圧力の洗礼を浴びなければならないのではないか?時には真剣に、時には無責任に投げかけられる、「それで結局君は何がしたいの?」「それってヤリたいだけなんじゃないの?」といった言葉に対して、「いやそんなことねーよ」「確かにそうかも」「ちょっと待てふざけんなてめえ」といった風に応戦していって、元の気持ち”候補”は現実との折り合いがつくような形に精製されていく。それを避けてるものは、結局シャーレの中でしか生きることはできなくて、つまり他人に届けることができない。正確には届けようとしたときに圧倒的なアルコール臭が付随して気分を萎えさせる。
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