戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
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0912
・その時大切だと思ったものについて、深く考えたいと思ったときに、それを日々に流されて忘れないようにメモしておくことは大事だと思う。僕はそれを、「ロストせずにトラックする」と呼び、基本的にはそのことに価値を置く。しかしメモ=目次を書いて満足し、深める作業を綺麗にロストしてしまうことがある。トラックのためのメモが、逆にロストの共犯になってしまう。これはよくない。非連続説。僕はこの注意書きを沿えて、面白すぎる日常についての備忘録を書く。
・それから、日常を形容している「面白すぎる」という言葉は非常に足りてない感がするのだけど、今のところこれより適当な言葉が見つからないので仕方なく使っておく。
・僕はネット上で実在の人物について引くための必要性以上に、知り合いにあだ名をつけたくなることがある。それは多分僕の主観の中で、名前とそれが表す人物の間にギャップがあってしっくりこないときに特に強く生じるのだと思う。ぴったりくるようなあだ名が見つかると嬉しいし、同じ名前でも、その人と関わることで、なにがしかが充填されていって、しっくりくるようになることもある。僕が見ているものは役に立たないアートだし、拘りの程度もそんな強くないので生々しくもないのだが、でも僕はこれを、ほかの多くのことに結びついている僕の法則だと思って愛おしいし、その気になればもっと言語化できると思っている。
・火曜水曜木曜は外部実習とキャンプ。そこで大切と思ったことは、実習をプログラムした人の意図は何かと、俺のナイーブな心性と、スタッフの役割と、くーだらないがリアルな嫉妬。ここは、次の一歩がよく見えないわ。多分苦手すぎるんだろう。だからナイーブに走りたがる。「知らない人ばっかの中で社交的に」とか、「積極的に自分から話しかける」とか全然やったことないし、怖すぎる。ああこのほかのトピックに比しての書けなさっぷりもすごい特徴的に思える。だってきっと思い出したくないんだ。それは分かる。そこまでは分かる。
・木曜夜はハリ子さんとお茶。そこで思ったことはこんなこと。僕のこの人に対するわくわくはとってもくすぶっている。僕はおそらく自分ができる以上にこの人の話を理解したいと思ってしまっているのだろう。別に話は理解せねば楽しくならないわけではないし、僕は楽しみどころをそこに求める癖がある。「よくわかんねーわ感」と、「よくわかんねーわ表出」の立ち消えと、「あちらさんはよくわかんねーわではないんだろうかな感」。「なんでも骨盤のせいにしてない?」は秀逸だと思った。「なんで社会に興味が出てきたの?」はまだ答えが見つかってない。その時はなんか答えたと思うが忘れた。こういう体験がもっとしみこむ体が欲しい。そんなことをメールで本人に送ろうと思ったがうまく行かなくて没にして替わりにここに書く。替わりってオイ。
・金曜は学会の手伝い。博士の人がものそっそい動いてる。誰かに似てると思ったら愛さんに似てた。研究者繋がり?この、新しく出会った人が、今まで知り合った誰かに、「似てる」と思う感覚がどういったメカニズムで生じてるのか知りたい。つか、類似性を見出す要因の同定と、他の比較要因と比べた僕の選択性。僕は人が多い中で動き方がちっとも分からなくなりまたもや困る。視えない圧力がみしりと心臓の骨をきしませる。そしてもうひとつ大切と思ったことは、夜にある先生が不満を漏らしたことの内容。真剣にしか思えないその言葉に対して、今の僕はピピンと来て賛同しかけて、直後にそれに疑いを持ってどうなんだろうと考え直し、とりあえず黙る。フックがかかった状態でものを喋る人に対し、フックがかけらんない僕が、見上げるような、ちょっと切ない感覚を抱いて話を聞くことがよくある。構造構成主義の本には、人ががちりとフックをかけるための要素についてはまったく書いてなかったので、僕は白紙の本を持って暫く呆然と立ち尽くしている。
・ふと思いついたんだが、俺もしかして、フックを外すこと(あるいは、フックをかけないこと)で防衛してはいないか?
・それから、日常を形容している「面白すぎる」という言葉は非常に足りてない感がするのだけど、今のところこれより適当な言葉が見つからないので仕方なく使っておく。
・僕はネット上で実在の人物について引くための必要性以上に、知り合いにあだ名をつけたくなることがある。それは多分僕の主観の中で、名前とそれが表す人物の間にギャップがあってしっくりこないときに特に強く生じるのだと思う。ぴったりくるようなあだ名が見つかると嬉しいし、同じ名前でも、その人と関わることで、なにがしかが充填されていって、しっくりくるようになることもある。僕が見ているものは役に立たないアートだし、拘りの程度もそんな強くないので生々しくもないのだが、でも僕はこれを、ほかの多くのことに結びついている僕の法則だと思って愛おしいし、その気になればもっと言語化できると思っている。
・火曜水曜木曜は外部実習とキャンプ。そこで大切と思ったことは、実習をプログラムした人の意図は何かと、俺のナイーブな心性と、スタッフの役割と、くーだらないがリアルな嫉妬。ここは、次の一歩がよく見えないわ。多分苦手すぎるんだろう。だからナイーブに走りたがる。「知らない人ばっかの中で社交的に」とか、「積極的に自分から話しかける」とか全然やったことないし、怖すぎる。ああこのほかのトピックに比しての書けなさっぷりもすごい特徴的に思える。だってきっと思い出したくないんだ。それは分かる。そこまでは分かる。
・木曜夜はハリ子さんとお茶。そこで思ったことはこんなこと。僕のこの人に対するわくわくはとってもくすぶっている。僕はおそらく自分ができる以上にこの人の話を理解したいと思ってしまっているのだろう。別に話は理解せねば楽しくならないわけではないし、僕は楽しみどころをそこに求める癖がある。「よくわかんねーわ感」と、「よくわかんねーわ表出」の立ち消えと、「あちらさんはよくわかんねーわではないんだろうかな感」。「なんでも骨盤のせいにしてない?」は秀逸だと思った。「なんで社会に興味が出てきたの?」はまだ答えが見つかってない。その時はなんか答えたと思うが忘れた。こういう体験がもっとしみこむ体が欲しい。そんなことをメールで本人に送ろうと思ったがうまく行かなくて没にして替わりにここに書く。替わりってオイ。
・金曜は学会の手伝い。博士の人がものそっそい動いてる。誰かに似てると思ったら愛さんに似てた。研究者繋がり?この、新しく出会った人が、今まで知り合った誰かに、「似てる」と思う感覚がどういったメカニズムで生じてるのか知りたい。つか、類似性を見出す要因の同定と、他の比較要因と比べた僕の選択性。僕は人が多い中で動き方がちっとも分からなくなりまたもや困る。視えない圧力がみしりと心臓の骨をきしませる。そしてもうひとつ大切と思ったことは、夜にある先生が不満を漏らしたことの内容。真剣にしか思えないその言葉に対して、今の僕はピピンと来て賛同しかけて、直後にそれに疑いを持ってどうなんだろうと考え直し、とりあえず黙る。フックがかかった状態でものを喋る人に対し、フックがかけらんない僕が、見上げるような、ちょっと切ない感覚を抱いて話を聞くことがよくある。構造構成主義の本には、人ががちりとフックをかけるための要素についてはまったく書いてなかったので、僕は白紙の本を持って暫く呆然と立ち尽くしている。
・ふと思いついたんだが、俺もしかして、フックを外すこと(あるいは、フックをかけないこと)で防衛してはいないか?
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