戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
| HOME |
DUB LEAVES
今までやったことのない家事をすること、芸術に触れること、世の様々な仕事について思いをめぐらすこと。この3つのことを、頻度の差はあれど始めているのだが、これらには共通点がある。これらのことをすることで、今まで当たり前のように行っていたことが、当たり前のように見過ごしていた体験が、新しい視点を伴って、一段深みを持って感じられるようになったのだ。そして私は、私に生じたこの小さな変化を育てていくことで、もう少し、ほかの人との関わり方をましなものにできるのではないかという期待を抱いている。
こういうことに気づくのは、多くの人は、今の私よりもだいぶ若い暦年齢のときに済ませているのかもしれない。私はとにかく、多くの当たり前のことをやりすごして今まで生きている。
私が当たり前のように風呂に入っていると、見えないところに代謝物はどんどん溜まっていく。放っておくとそれは、化学反応を起こして、悪臭を発し始めたりする。私が当たり前のように使っているコップは、どこかの誰かが設計し、実際に焼き上げたものであり、そこには作り手の意志が込められているかもしれないし、あるいは原料となるもの(土、だろうか)を集めた人についてもそう。私が当たり前のように使っている硬貨をどこかで機械を使って作った誰かはいるし、あるいはずっと昔に作る仕組みを作った人や、誰か別の人が作った仕組みを維持している人がいる。
想像力によって世界はどこまででも拡がるし、それは実際に行うこととタッグを組んで世界を変えてきたのだろう。ものごとを理解したり制御したりすることは、できたりできなかったりするけれど、そうでない状態からそこに近づこうとするとき、始めにしなければならないことは、それについて意識すること、注意を向けることだ。そこからすべては始まる。そしてそれは始まりでしかない。
きょうは内臓がミルク浸しになっているような感じがあって、子どもと遊んでいた楽しい2時間を除き、ずっとその不快感が付きまとっていた。そのせいだけではないけれど、何もまともなことをする気がおきなくて、ぼんやりと過ごした。そういえば先週の土曜もそんな感じだったように思う。前日のお酒が残っているのかもしれない。私はお酒を飲むとき、その時にどれだけ理性を失うかという観点だけでなく、翌日にどれだけ引き摺るのかという観点も持って、自分のお酒のキャパを考えた方が得策なのかもしれない。そんな発想は今までなかった。
なにかに気づいた、とブログで書くこと、あるいは誰かに話すことは、ちょっと危険なことだと思う。というか、そうしたときに、頭のどこかで警告音が聞こえる。なぜならば、言葉にすることが、意味を抜いてしまう場合が往々にしてあるからだ。実行するのが面倒なとき、言葉にすることで、代わりに済ませてしまうことがある。だけど一方で、言葉にすることで、それが過ぎ去っていくことを防ごうとしたり、それになんとか対抗しようとしたりという、目標を見定めることもできる。私は言葉とのうまい付き合い方を探っている。そしてそのためにブログを書き続けている。そして、それはどうやら私の場合、ツイッターではうまくいかないらしい(ただ、その結論は実際にやってみてからくだすべきだ)。
ひとつ前の記事は、すごくふわふわした状態で書いたので、書いたことを後悔しているが、その失敗体験から気づいたこともあった。ブログなんていう媒体で、どっかの誰かに向けて意味深な言葉を打ってしまう気持ち。傍から見たら、勘違いするか、引いてしまうようなことに、内側からひとつチャンネルできたことだ。
こういうことに気づくのは、多くの人は、今の私よりもだいぶ若い暦年齢のときに済ませているのかもしれない。私はとにかく、多くの当たり前のことをやりすごして今まで生きている。
私が当たり前のように風呂に入っていると、見えないところに代謝物はどんどん溜まっていく。放っておくとそれは、化学反応を起こして、悪臭を発し始めたりする。私が当たり前のように使っているコップは、どこかの誰かが設計し、実際に焼き上げたものであり、そこには作り手の意志が込められているかもしれないし、あるいは原料となるもの(土、だろうか)を集めた人についてもそう。私が当たり前のように使っている硬貨をどこかで機械を使って作った誰かはいるし、あるいはずっと昔に作る仕組みを作った人や、誰か別の人が作った仕組みを維持している人がいる。
想像力によって世界はどこまででも拡がるし、それは実際に行うこととタッグを組んで世界を変えてきたのだろう。ものごとを理解したり制御したりすることは、できたりできなかったりするけれど、そうでない状態からそこに近づこうとするとき、始めにしなければならないことは、それについて意識すること、注意を向けることだ。そこからすべては始まる。そしてそれは始まりでしかない。
きょうは内臓がミルク浸しになっているような感じがあって、子どもと遊んでいた楽しい2時間を除き、ずっとその不快感が付きまとっていた。そのせいだけではないけれど、何もまともなことをする気がおきなくて、ぼんやりと過ごした。そういえば先週の土曜もそんな感じだったように思う。前日のお酒が残っているのかもしれない。私はお酒を飲むとき、その時にどれだけ理性を失うかという観点だけでなく、翌日にどれだけ引き摺るのかという観点も持って、自分のお酒のキャパを考えた方が得策なのかもしれない。そんな発想は今までなかった。
なにかに気づいた、とブログで書くこと、あるいは誰かに話すことは、ちょっと危険なことだと思う。というか、そうしたときに、頭のどこかで警告音が聞こえる。なぜならば、言葉にすることが、意味を抜いてしまう場合が往々にしてあるからだ。実行するのが面倒なとき、言葉にすることで、代わりに済ませてしまうことがある。だけど一方で、言葉にすることで、それが過ぎ去っていくことを防ごうとしたり、それになんとか対抗しようとしたりという、目標を見定めることもできる。私は言葉とのうまい付き合い方を探っている。そしてそのためにブログを書き続けている。そして、それはどうやら私の場合、ツイッターではうまくいかないらしい(ただ、その結論は実際にやってみてからくだすべきだ)。
ひとつ前の記事は、すごくふわふわした状態で書いたので、書いたことを後悔しているが、その失敗体験から気づいたこともあった。ブログなんていう媒体で、どっかの誰かに向けて意味深な言葉を打ってしまう気持ち。傍から見たら、勘違いするか、引いてしまうようなことに、内側からひとつチャンネルできたことだ。
PR
COMMENT
コメントする
このエントリーのトラックバックURL
これがこのエントリーのトラックバックURLです。