戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
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VOICE/わが社
うちの会社のやり方というものが、ちょっとずつ色がついてみえてきた。
そのうちのいくぶんかは、ほかでも通ずるものだろうし、
ほかのいくぶんかは、独特で、あるいはとても奇妙なものなのだろう。
区別はまだよくわからない。
その巨大な組織の中で、色んな人が色んな思いで日々働いている。
まずはどっぷり漬かって、それから浮きあがるぜい。
おとなの小論文教室の失恋論、斜に構えて読んでいたが、
「感染」ということはすごく、すごくそうだなあと思う。
また生ゴミを出し忘れ、香ばしいのが部屋を満たす。
アロエ強烈な香りのハンドソープには飽きてしまった。
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あっ
一向にうまくならん料理に週末を費やす俺を形容するぴったりの言葉を見つけてしまった。
「下手の横好き」
横ってなんだろう、と思ってググったら、語源は思っていた意味と少しちがった。
いつか他人に振る舞えたらとは思うが、口を出す気にはなれんなあ。
だってへただもの。
SYNAPSE PARTY
”シナスパ”
人は、過去と現在を行ったり来たりしながら、未来に進んで行くものだと思う。
風邪引きかけたり、教習所に通い始めたり、「学校3」という映画を観たりした週末。
美大の専科にあるような、広い意味の「デザイン」ということが気になってきている。
変な時間に起きてしまった。
楽しすぎた日の翌日に余韻が残って浮かれたり、差分で淋しさを感じるのはいつものはなし。
これは何日か前のこと。
わたしはよく軸がぶれてしまって、何がしたいのかを見失う。
状態がぶれること自体は、生きている以上押さえられるものでもないし、悪いことでもないのだと思う。
しかしそのぶれにつられて、今のわたしは、ぶれないといいところまでぶれてしまう。
わたしの中のある2つの性質は紐でむすばっていて、ひとつが動くともうひとつも動く。
そのつっぱりに身を任せるのは楽しくもあるが、そこから自由であることはとても大事だと思う。
外をあてどなくうろつくことは、好奇心に導かれた散歩と形式的には似ていても、中身はまったく違う。
外でご飯を食べることは、幸せな体験だったり、ほっとしたりする体験とも繋がるけれど、家でご飯を作ることができないままにお金をばらまくだけなのであったら、それは自傷の一種でさえあるのではないかと思う。
家に帰って、コートを脱いで、背広を脱いで、荷物を置いて、生ものは冷蔵庫に入れて、ポケットの中身を全部出して、ネクタイを外して、タイピンも外して、ベルトを外して、スラックスをプレッサーにかけてジャージを履いて、Yシャツと靴下を脱いで洗濯かごに入れて、コンタクトを外して、ガウンを羽織る。
そういった当たり前のことを当たり前にすることが、自分を大切にすることだとわたしは思う。そしてわたしは自分を大切にすることからしか、他人を大切にすることはできないような気がしている。それは常に自分を優先するということではなくて、なんというか、説明が難しいのだけど。
わたしは自分のことを自己中心的だと思っているので、知り合いが誰かのことを自己中心的だと批判しているのを聞くとどきりとする。見も知らぬ誰かに同情してしまって、目の前の人の話をちゃんと聞けなくなってしまうことがある。
今年になって出会えた人で、すてきな人がいる。すてきな人なんじゃないかという予感がする人は、たくさんいる。クセが強いけど、うまく付き合えたら楽しいだろうなあと思う人もいる。そういう人と関わるごとに、わたしはどきどきして、わくわくして、浮かれて、一方で不安になって、おびえて、落ち込んで、消耗して、あるいは偉そうになったりする。
これは何日か前のこと。
わたしはよく軸がぶれてしまって、何がしたいのかを見失う。
状態がぶれること自体は、生きている以上押さえられるものでもないし、悪いことでもないのだと思う。
しかしそのぶれにつられて、今のわたしは、ぶれないといいところまでぶれてしまう。
わたしの中のある2つの性質は紐でむすばっていて、ひとつが動くともうひとつも動く。
そのつっぱりに身を任せるのは楽しくもあるが、そこから自由であることはとても大事だと思う。
外をあてどなくうろつくことは、好奇心に導かれた散歩と形式的には似ていても、中身はまったく違う。
外でご飯を食べることは、幸せな体験だったり、ほっとしたりする体験とも繋がるけれど、家でご飯を作ることができないままにお金をばらまくだけなのであったら、それは自傷の一種でさえあるのではないかと思う。
家に帰って、コートを脱いで、背広を脱いで、荷物を置いて、生ものは冷蔵庫に入れて、ポケットの中身を全部出して、ネクタイを外して、タイピンも外して、ベルトを外して、スラックスをプレッサーにかけてジャージを履いて、Yシャツと靴下を脱いで洗濯かごに入れて、コンタクトを外して、ガウンを羽織る。
そういった当たり前のことを当たり前にすることが、自分を大切にすることだとわたしは思う。そしてわたしは自分を大切にすることからしか、他人を大切にすることはできないような気がしている。それは常に自分を優先するということではなくて、なんというか、説明が難しいのだけど。
わたしは自分のことを自己中心的だと思っているので、知り合いが誰かのことを自己中心的だと批判しているのを聞くとどきりとする。見も知らぬ誰かに同情してしまって、目の前の人の話をちゃんと聞けなくなってしまうことがある。
今年になって出会えた人で、すてきな人がいる。すてきな人なんじゃないかという予感がする人は、たくさんいる。クセが強いけど、うまく付き合えたら楽しいだろうなあと思う人もいる。そういう人と関わるごとに、わたしはどきどきして、わくわくして、浮かれて、一方で不安になって、おびえて、落ち込んで、消耗して、あるいは偉そうになったりする。
先生!
教育論ジャム。
・義務教育の中身はどう決まっているか
・学校で科目を教えることの影響はなにか
・学校の役割はなにか
・生きていくのに役立つことを教えたいのか
・学ぶ方法を教えたいのか
・学ぶことを好きになってもらいたいのか
・個人差は考慮すべきか、どの水準で、どの段階で考慮すべきか
・新たにカリキュラムに組み込むべきことはあるか
・外すべきこと、外すべきでなかったこと
・親が学校に期待していることはなにか
・教師が学校の役割として認識していることはなにか
・もし義務教育がなかったら、日本はどうなる
・義務教育は誰のためにあるのか
ツタヤで「学校2」という映画のDVDを借りようと思ったら貸出中だったので、
「学校3」を借りて、これから見るべさ。あれー。
・義務教育の中身はどう決まっているか
・学校で科目を教えることの影響はなにか
・学校の役割はなにか
・生きていくのに役立つことを教えたいのか
・学ぶ方法を教えたいのか
・学ぶことを好きになってもらいたいのか
・個人差は考慮すべきか、どの水準で、どの段階で考慮すべきか
・新たにカリキュラムに組み込むべきことはあるか
・外すべきこと、外すべきでなかったこと
・親が学校に期待していることはなにか
・教師が学校の役割として認識していることはなにか
・もし義務教育がなかったら、日本はどうなる
・義務教育は誰のためにあるのか
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「学校3」を借りて、これから見るべさ。あれー。