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 0706: 蕩け織る

「芝居というものは、ものすごく微細なものを増幅して描くこともできるし、ものすごく壮大なものを圧縮して描くこともできる」というようなことが、平田オリザの本に書いてあったのだと思う。わが町なんかは後者なんだろうな。
そして僕は、前者に拘る芝居を書きたいと思うのだが、ちょっと気をつけなければならないことがある。多分ポイントは、「増幅」の仕方。
ただ体験するそのままでは、微細な感覚でしかないそれ。それを舞台の上に載せようと思ったら、なんらかの形で増幅しなければならない。ひとつのやり方としては、それを観念的に脳内で増幅し、それを語りの形で提示するというものがあると思う。鳥公園はそのような芝居だったのだと思う。もっとも、西尾さんからしてみれば、意図して増幅したというより、「勝手に膨れ上がっていった」という方が近いのかもしれない。
他人の芝居については根拠のない推測が混じりすぎるのでこのくらいにして、増幅の仕方。
この微細な感覚を、その「掴もうとすればするりと消えてしまう」性質を失わずに、受け取り手まで届けたい。
「心理描写は芝居に向いていない」というような話を昔聞いたことがあって、小説や漫画や映画といったメディアの方が向いているという話だった。それは確かにそういう所があるのかもしれないが、例えばそこにハンディがあったとしても、それを補ってあまりあるだけの魅力が、眼前の身体には可能性として宿っているような気がする。
ただこのメディアに対する好みには、あまり自信がない。
ちょっと、芝居の脚本を書くチャンスがあるかもしれないと思うきっかけがあったので、多分こんなことが思い浮かんだのだろう。
酷くまとまらず、ちらばって浮んでたゆたんでいる。ピースオブマインド。

微細なものの運び手として、とても共通了解のしやすい、ビークルのようなものが全体を引っ張るといいんだろうな。電車みたくね、色んな雑多なものをまとめて同じ方向に運んでく。まっすぐ進むだけじゃなくて、曲がったり、止まったりしながら、でも同じベクトルを雑多な乗客に与え続ける。巨大な同一性。
でもそれがあるタイミングで、ふっとバラバラになるのだ。停電でもいい。連なった数珠の糸が切れて、ぶちんと言った瞬間でもいい。携帯で話していて、電波が急に悪くなったのでもいい。繋がって大きなひとつに含まれていたものが、断絶されて、ぼくになる。
すると、そこから立ち現れるものがあると思うんだ。
結局、フェルトセンスに回帰するのかもしれない。走りながら掴もうとして掴めない体験と、止まった中でもっとより鮮明に触れることができる体験。走りながらでも少し息を抜くことを覚えて、前よりはもっとそれを味わうことができるように変化する。人と人を繋ぐもの。世界と人を繋ぐもの。観客と、俳優を繋ぐもの。
黄金を求める歪曲王。初めて読んだ時はちんぷんかんぷんだったが、今は彼のやろうとすることがだいぶよくわかるつもりだ。
アンダーとアッパーなトランス。呪術的な踊り。薬物による精神変容。それはなんだかハンドルだけど、ハンドルは大事だけどハンドルでしかなくて。
嗚呼、あの人に逢いたいなあ!
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