戯言ヲトメツバキ(完)
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僕はいつのまにか辺縁を探る癖がついてしまっていて、一度見つけたものに対する関心が薄い。同じものは一度見つけるだけでなく、何度も何度も見つけてくことができるのであるのに。
僕は自信を持つということを久しく忘れてしまっている。自分の内部ではとても強く確からしいことも沢山あるが、一歩僕の外に出てしまうと、そこでも果たしてそれが成立するかということに対してまったく確信が持てない。同じようなパーツでできている僕ら人間は、まったく違う中身を持っているかもしれない。僕は自分の中で精製したものを外の世界で試す、ということをずっとおこたってきた。'必要ないさ'と思ってた。
だから僕がここで語る言葉っていうのは、他人に向けた言葉ではない。意識は他人に向いているけど、形式はまったく僕の内部システムの様式だ。変換作業、翻訳作業ができていない。あるいは、僕とあなたがたの間で共通に成立する言語が僕には育っていない。
だからおそらく僕のこの言葉が人に届くのは、断片的なものかあるいは、とんでもなく深い理解力の持ち主が、不親切な僕の言語という壁をやすやすと飛び越えて、その中でくすぶっているものを読み取ってくれるかの、どちらかしかないと思う。今は。
僕が時々、'君は年上の女性が似合っているよ'と言われるのはおそらく、他者に伝える言葉を持たない僕のことを、その深い理解力で持って読み取ってくれるひとならば、僕の短所を補って、親密な交際に必要なだけの意思疎通が可能だと思ったんじゃないだろうか。そういう風に舌足らずな言葉で自分を分析するのはとても自己嫌悪を抱くが、まったく満足していない踏み台として割り切れば、即座に消すほどのものでもない。
お察しの通り、少しだけ錯乱している。多分これは錯乱と呼べるだろう。自我をはみ出てきている。多分このブログの1つの機能には、自我をはみ出したものがすぐに直接的な対人関係に侵食する前に、このブログにはみ出すことで、それを少し吸い取って、押さえることができるというものがあるのだろう。そんな使用済みの緩衝材は、決して人に見せたりするものでないと考える人がいるのは分かるつもりだ。願わくば、これが単なるそういうもので終わるのでなく、次に進む推進剤になるといい。
当たり前のことをちゃんと言葉にしていくというのは、僕が当たり前のことを言葉にするのをおろそかにする、という癖を持っているという背景においてはなおさら、重要なことだ。
世の中の人がなぜ新聞を読んだりニュースを見たりしているのかが、昔は疑問で、ちょっと前からは、'意義はよく分からんが、とにかく知っておかねばならないらしい'などと思っていたが、もしかすると、そうすることで、世界や社会、つまり自分の五感によって感じ取れるよりも広いものについての、モデルを頭の中に構築できるのかもしれない。僕が参考書を読むのと同じ理由だ。自分の体験はかけがえのないものだが、多様な体験を可能にするにも、体験できないことを補うためにも、本などの間接的な知識は重要だ。本に溺れては失うものも大きいので、バランス感覚はそれと別にあるとよいのだが。
図書館に全部あったので、刀語を最後まで読んでしまった。インパクトや痛快さは戯言や化物語シリーズより弱かったが、そして長いと思ったが、この人が表したかったことは、この12か月連続刊行の形でこそ生きてくるのだと、漠然とながら思う。泥臭さのない世界で、歴史の概念とか、肯定と否定とか、今まで知ってたものを、また1ページ見つけたような気がする。
現実に何かをしようと思うならば、現実の規則という糸の上をうまく歩けなければなりゃない。
1人で生きるには、この人生というものは長すぎるのだきっと。
僕が目指すプロというものを考えている。