戯言ヲトメツバキ(完)
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0118a: 最近の僕らは
15日
小学校に行くも、やることが見つからない。
修論を提出する。
打ち上げ飲み会で久しぶりの人と話す。
終電を逃して泊めてもらう。
16日
昼前に美味しいスープカレー屋に行く。
図書館で職業と喫煙と集団精神療法の本を借りる。
殺陣のワークショップのようなものに参加する。
アメリカから帰ってきた先生と2時まで話す。
17日
療育施設で実習に参加する。頻繁に眠くなる。
ここで自分が週5.5で働きたいと思うかまじめに考える。
障害児の母親支援に興味がある彼と居酒屋で話す。
終電を逃し、大島のマックで5時間始発を待つ。
対人意識が激しく動いて不安定です。
へっこんだりふくらんだり、右にぶれたり左にぶれたり。
ここ3か月は多分、「僕が仕事にしたいものを見つける作業・その1」
とかってラベルを貼れると思います。
「濃紺Psycleモックバルpt.7 ―メルティングポット&サーチライト―」
OJTのように、非構成的な構造で何かを学ぼうとする場合、
その仕事に必要なことをまとめてしかも有機的に学べるのは良いのだが
その一方でそれらが整理できずにごちゃごちゃになって混乱が生じる
こともある。混乱に弱い人は、それを支える棒があるといい。
そういうあたしの、プルタバルタプロジェクト。
0114: ポエ爺
積み上げることをしたい。
そいつをぼくは、スタックアップと呼んでいる。
ぼくがそういう言葉を吐くのは、それをぼくのまわりにとどめておこうと思うからだ。
言葉はただのハンドル。取っ手でしかない。
そういうことでもしないと、ぼくはすぐにそれを見失ってしまう。
言葉は入り口だ。
言葉は鍵だ。
言葉はまるで、小説の題名のようだ。
「ぼくはこれからその小説を読もうとしていて、わくわくしている。」
うるおいが必要だ。
うるおいが足りないと、大切な言葉もかさっかさにしてどっかにこすれてってしまう。
ぴたりぴたっとくっついて、じわりと伝わる熱を感じたい。
言葉より、もうすこし複雑な言葉は、構造だ。
構造は、うごきがないと、ただの死骸でしかない。
息を吹き込んで、回路をうごかして、世界は色づいていく。
「夜明けまえ、太陽が白い光を、青暗い空の世界にそそいでく。」
0111
ヘルタースケルターとか、strawberry shortcakesとかいう漫画、
ぼくがちょっと前に、人づてで興味を持って読んでいる漫画が、
最近火男の広田さんの口から出てくることがあって、おやりと思う。
大きなものさしで動くこともしたいなあ。日々精進。
【嗅覚】【喫煙】【解離】【ホームレス】の4点が、あたしが今もなお心惹かれる
テーマであり、その理由は見当たらなくて直感的というか生理的なのだが、
これらに惹かれる理由がもし見つかったら(たぶん共通の根っこがあると思う)、
ぼくはもう一歩ぼくについて理解することができるだろう。
「香りの愉しみ、匂いの秘密」が、「Secret of Scent」の訳本だということに
今日はじめて気づいた。 ふふふ!
料理の本を見ながら料理を作るということを昨日からやってみていて、
「基本型」というものがいかに大事なのかということを実感し始める。
僕はあまりにも「自己流」でやりたがる人間で、「自己流」と「基本型」というのは
おそらくある程度のレベルまでは対となる。
バスケット、健康管理、演劇、心理臨床、研究、料理、エトセトセトラトラ。
与えられた基本型をしっかりからだになじませる第一段階。
それから必要に応じて基本型を崩したり新しいものを取り込んだりして、
私だけの私ならではの型を、みし、みいだ、み、
・・・・
みそめ、みちびき、、み、みー、みつけ、みろ、つか、つくり、あー、と、、
・・・・・・・
私だけの、私ならではの型を、ついきゅう、追求するのだ。求道するのだ。
で、
社会常識とか呼ばれてるものも、基本型の一種なのだな!
そして、常識というものをお互いに共有していると、ある種の作業がなんと楽なことか!
(って、これも片鱗を味わっただけだけれど。)
スタンダード、コモン、なんたらかんたら、うんたらかんたら。
するとその逆の異質性ってのが気になるけど、もしかして、
異質なもの同士を、クテネク、異質なもの同士が、うまく何かをするための触媒が
共通たる基本型としての社会常識なのか??
そしてそれは人間の必然として、ある部分でドグマ化されて若干前後の不合理を生み出す。
そして僕の日本語は基本型がとってもなっていない。
(そんなんみんなとっくにしってることだが。)
0110: 播磨坂に行こうの歌
ガバガバ水飲んでゴボゴボ沈んで。
体の内側も外側もおんなしことしになってしる。
耳たぶがあつい。目に入るものすべてが記号。
、解読不能。
ぎゅぎゅっと押し込められたときに、発生する熱が、
ヒヨウメンを溶かして、くっつけて、さあ大変だ。
ンァ…ス、ダイテンハ、、ぎるぎる。
ぎるぎる。ぎるぎるぎる。
ぎゅっぎゅっ。
ぎるぎるぎゅっぎゅっ。
0109: クルスキユバルの纏々能
練らずに思いついたものを挙げるならば、
「僕はこんな風に生きてますよ」 か。
ためにはきっとならない。おもしろいかは人にもよると思う。
修論を直している一連の流れで大学に久しぶりに行ったら
図書館の貸し出し停止が解けていたので適当に何冊か借りた。
・「タバコはなぜやめられないか」(宮里勝政)
・「薬物依存」(宮里勝政)
・「タバコ」(宮城音弥)
・「Google経済学」(柴山政行)
・「図解 きほんからわかるモチベーション理論」(池田光・編著)
・「アカデミック・ライティング-日本文・英文による論文をいかに書くか-」(桜井邦朋)
・「弁護士が書いた究極の勉強法-小学生から学ぶ大人の成功法則28-」(木山奉嗣)
・「「超」文章法-伝えたいことをどう書くか-」(野口悠紀雄)
まず「究極の勉強法」を通して読んだ。
その参考文献の欄に、「「超」文章法」が載っていたので、今度はこれを読んだ。
ぼくが今苦戦している、修論執筆(完成)との距離感が絶妙だった。
ところで、
最近強く心に残っていることはこんな風にまとめられる。
「論理的な言葉と感情的な言葉は違うもので、補いあっているが場面によって重要性が変わる」
「論理的な言葉」と「感情的な言葉」を、「言語的コミュニケーション」と「非言語的コミュニケーション」
と言い換えてもいい。
最近のぼくは多分、コミュニケーションができるようになりたくて、これらを2つとも修得しようと
大変欲張っていた。
「「超」文章法」はとてもためになる本だと直感した。
一読しただけではその意味を充分に掬い取ることができなかったので、今後何度も読むだろう。
ぼくは論文を書きたがっているし、戯曲も書きたがっている。
おそらく、こいつらに共通する作法と、独特の作法と、作法に収まらないエッセンスがある。
ぼくはそいつらとこれから仲良くしていきたい。
文章。
ことばーァ、言葉っ。
コトバーハ、イランカネー。
・・・そっちの方にモチベーションが向かっていると、面白いようにピタピタと言葉がくっつく。
それこそ木山氏が「スポンジのような頭」とか「沸騰した頭」と喩えていたような状態だ。
逆に、モチベーションが向かっていない刺激が提示されてもまったく響かないのだろう。
カチンと表面にぶつかって、そのあとは滑り落ちて溶けて消えてしまう。
敏感な、もちもちとした、湿度の高めな、うるおった、火照った、ような、そんな、状態。
状態。
一緒にいる人の、もちもちの方向性に見当をつけながら、その人と話してみたい。
自分のもちもちだけでなくて、他人のもちもちも、きっと楽しい。
楽しくなかったら、それはそれでいいや。
今日もぼくは、ひとりごつ。