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 0818

「小説の感想の話が研究倫理の話になった。」

 「スクールアタックシンドローム」(舞城王太郎)は図書館で予約していたのだが、本屋に寄ったら420円なんかで売ってたので買ってしまう。そうか、そんなものなのか。やることが沢山詰まっているので、表題作だけ読む。戸梶圭太の小説を読んだ時と似たような、活字に溺れるような感覚が生じる。戸梶圭太の方は、落ち葉の溜まった汚いプールに足を引き摺り込まれるような感覚だったが、この小説は、もっと粘性の高い、糊のような紺色ものが固まった、のっぺりしたパン生地のようなものに練り込まれるような感覚を引き起こした。それがどういう意味かっていうのは今の僕にはちょっと分からな(さ)そうで、無理やり言葉を捻り出したら随分と嘘になりそうで、だから僕はそれ以上無理に言葉を探さないことにした。でも僕は最近読んでる本の所為で真実なんてものの存在には相当懐疑的になっているから、それの裏返しである嘘という言葉を使うことにも違和感を感じ始めたりなんかしている。バカらしい。だから嘘と言うよりももう少し小難しい言葉を使って、この僕の感覚という現象に整合的で無い、とか言ってみようと思う。バカらしい。こんな物言いはもちろん今の僕にとってのみ言い換える意味のある言葉であって、他の人に伝える言葉としては酷く劣悪なものだ。バカらしい。だからそこで僕は、自分に向けて誂えられた言葉と他人に向けて誂えられた言葉は、同じナニカを表現するのでも違ってくるということにようやく気付く。これに気付くのは初めてではないが、こうやって気付くのは初めてだから、つまりこの気付きには新しい意味がある。誰かとコミュニケートすることでナニカを発見するということは勿論いくらでもあって、人間に関することなんて大抵はそうなのだけど、それでも発見したナニカを他人に伝えるということ(他人にナニカの発見を追体験させることとほぼ同義)は、自分がナニカを発見する一連のプロセス自体とは切り離したオプションのようなものだと思っておいた方が収まりがいい。そこの優先順位だとか、目的―手段関係ははっきりさせておかないと、誰かにナニカを伝えることが、ナニカを発見することよりも重要な位置に置かれてしまったりするし、ヘタをするともっとそれ以上に悲惨なことが起こり得る。僕は修士課程に在籍している研究者の端くれとして、自分の出来る限りでそういうことを未然に防がなければならない。
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