戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
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0904
調子が戻らない。
つっても本調子なんてものがあったのかさえそもそも怪しいのだけど、でもやはり不全感が付きまとう。
いろいろな活動を恣意的に内省(一人称)・関係(二人称)・役割(三人称)に分けて考えてみる。最も減衰が少ないのが内省で、でもこれはマッチポンプなところがあるのでチェックが働いてないだけで、実際はぐでぐでなのかもしれない。役割はひとつの作業に時間がえらくかかりつつも、それでもまだ動いている。ひどいのが関係の活動だ。相対的なものに対しての見通しがまったく立たなくて、未知への恐怖とハードルの高さ感覚がものごっつい。あいさつとか、反射で動ける分ならまだしも、ちょっと心を使おうと思うとすぐにハングアップしてしまう。二人称がぽっかり空白で、ドーナツのような認知地図が脳内に浮かんでいる。
大切にしたいと思うことを少し大切にできてきたような気がしたのに、実はそれはパイが増えたのではなくて僕の内部でパイが移動しただけであって、別のどこかでパイが減っていたんだろうか。周りには素敵な友人や素敵な人たちが溢れているのに、僕はチッソクしそうになっている。
言葉のバリエーションが少なくなっていて、ぴったりする言葉を見つけられずに、近いけれどズレている言葉と結びつけてしまうから、その差分が違和感として残って三半規管が侵される。油断するとすぐに頭だけで考えてしまっていることに気づく。差分はずっと大きくなっている。
こんなふうに中身の弱音をブログに書いて形にして吐き出して、ちょっとそこから距離を取るというやり方をするから、ブログにはこないウツウツとした文章が溜まっていく。僕にとってのブログが二人称よりも三人称よりも、まず一人称としての活動になっているなによりの証拠じゃい。楽しいときは浮かれた文章を鼻息荒く書き、しんどいときは断片的だったり長苦しかったりする文章を急かされるように書く。そういうものが最善だと思っているわけでは決してないが、やり方を変えるにしても、今のやり方を踏まえた上で変えられるものを探していくのでなければ、長くは続かないだろう。僕が見えるものはこのくらい。
つっても本調子なんてものがあったのかさえそもそも怪しいのだけど、でもやはり不全感が付きまとう。
いろいろな活動を恣意的に内省(一人称)・関係(二人称)・役割(三人称)に分けて考えてみる。最も減衰が少ないのが内省で、でもこれはマッチポンプなところがあるのでチェックが働いてないだけで、実際はぐでぐでなのかもしれない。役割はひとつの作業に時間がえらくかかりつつも、それでもまだ動いている。ひどいのが関係の活動だ。相対的なものに対しての見通しがまったく立たなくて、未知への恐怖とハードルの高さ感覚がものごっつい。あいさつとか、反射で動ける分ならまだしも、ちょっと心を使おうと思うとすぐにハングアップしてしまう。二人称がぽっかり空白で、ドーナツのような認知地図が脳内に浮かんでいる。
大切にしたいと思うことを少し大切にできてきたような気がしたのに、実はそれはパイが増えたのではなくて僕の内部でパイが移動しただけであって、別のどこかでパイが減っていたんだろうか。周りには素敵な友人や素敵な人たちが溢れているのに、僕はチッソクしそうになっている。
言葉のバリエーションが少なくなっていて、ぴったりする言葉を見つけられずに、近いけれどズレている言葉と結びつけてしまうから、その差分が違和感として残って三半規管が侵される。油断するとすぐに頭だけで考えてしまっていることに気づく。差分はずっと大きくなっている。
こんなふうに中身の弱音をブログに書いて形にして吐き出して、ちょっとそこから距離を取るというやり方をするから、ブログにはこないウツウツとした文章が溜まっていく。僕にとってのブログが二人称よりも三人称よりも、まず一人称としての活動になっているなによりの証拠じゃい。楽しいときは浮かれた文章を鼻息荒く書き、しんどいときは断片的だったり長苦しかったりする文章を急かされるように書く。そういうものが最善だと思っているわけでは決してないが、やり方を変えるにしても、今のやり方を踏まえた上で変えられるものを探していくのでなければ、長くは続かないだろう。僕が見えるものはこのくらい。
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