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 0923

ものすごく抽象的なことを雑然と書いたものです。
昨日まで無駄にちょっと寂しがっていたのが、肉野菜炒めを食べたら元気になって、それがふわふわしていて散漫に何か言葉を吐き散らしたいと言っています。僕は自分に甘々なのでその通りにさせてやりました。こういう、ロールシャッハ片口式なら形態水準マイナスプラスな言動が多くを占め、それなのにそれゆえにそれに固着することが、僕のパーソナリティのかなり多くを特徴づけているんじゃないかと思います。病的だけれど元気です。野菜ってすばらしい。

自分が何をやりたいのかよくわかってない僕は、自分が何をやりたいのかをよくわかることを目的としよう。
自分が何をやりたいのかを自覚することを大きく肯定する価値観は、普通に考えれば否定しようもない。僕も9割以上は同意できるのだが、若干のひっかかりが残る。それが単純に僕の新しいものへのビビりから来ているのか、それとももうちょっと一般化できる意味を持つのかはよくわからない。
大きなことをする場合には、大抵いくつかの段階というものがあって、それぞれの段階同士でやることがまるっきり正反対だったりすることもある。ある段階で上手く行ったことにこだわりすぎてしまうと、それが次の段階への移行を妨げ、全体としては停滞を生じさせるということも多々ある。だからこれは大きな視点と小さな視点の問題と考えることもできる。
わからないことを洗い出す段階もあれば、わからないことを保留する段階もあれば、わからないことを捨てる段階もあれば、わからないことを潰す段階もある。いつでも通用するような黄金律などそんなに沢山はない。ただし、いつでも通用黄金律の価値は中身自体というよりも、頭の中を節約できるというところにある。頭の容量は下に書くように多い方がいいし、少ないと厳しいし、増やせるものなら増やしたいのだが、そう簡単に増えてはくれないので、現実的に多少適合性が悪くても黄金律を採用することは充分に有効なやり方だ。しかしそれを「当たり前」にしてしまうと、不適合に接触した他者がものすごく不快感を感じる。
心理面接をするときに「頭の中を複雑にしておくことが大事だ」と言っていたのは神田橋先生だったか不確かなのだが、頭の中(前意識)に何かを持っておいて、必要に応じてすぐに思い出せるようにしておくとか、ある刺激に対して特定の反応ができるようなギミックを意図的に持っておくことはもっと一般的に大事なことだろう。共有しやすいのは目に見える行動だが、本態はそれを生み出すひとつ前の状態にある。チェルフィッチュの岡田さんが、「ことば」より前にあるものとして挙げていたのはなんだったっけ。
自閉的傾向を持つ人は、選択的知覚を柔軟に使うことを苦手とするので、そこにあってもまったく見えなかったり、そこら中のものが見えまくって洪水が起きたりする。後者と注意欠陥傾向の注意転導性とは、客観的事象や有効な支援法について共通点はあるものの、相違点もあるため区別して考えるとよい。

こういう風に吐き出したものの中に、僕が大切にすべきものが含まれているのは絶対にそうだと思うのだけど、あまりにも不純物が多すぎるのでこのままでは使えない。そして僕はこの次にするべき精製の作業が苦手で、それをしないままこのブログに書きっぱなしにしている。時間が経って冷め、今の自分と距離ができたものを改めて精製することは、すぐに手をつけるのと比べていくつかの利点といくつかの不利点がある(デメリットの適切な和訳が分からない。欠点・短所・損失はどれもピンと来ない)。この作業。この作業。
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