戯言ヲトメツバキ(完)
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0130
頭が痛い。
頭が痛いということばには、いろんななかみが含まれている。
水曜は修了試問と3ミリの顔合わせ。
修了試問は研究内で検討していなかった要因について質問されたのと
方法について「こうしたらよかったね」というコメントをもらった。
あとから考えてみたら、10日後の本提出までに何を直すのかわからない。
ぽうっとしてやがる。(×××しい)
3ミリの顔あわせは他人が多くでキョドる。
読み合わせで声を出すのにキョドる。
考えて、試して、見つけて、積み上げて。
考えて、試して、見つけて、積み上げて。
考えて、試して、見つけて、積み上げていかねば。
体がとっても固くなっている。
ストレッチをすれば少し緩まることはわかっているん。
でもそれだけでは不十分なのもわかっているん。
木曜は小学校と教育相談員の願書提出。
小学校では密かに喜んだり凹んだり退屈したりする。
言われたことだけやってちゃあ進歩は望めないんだろうけど、
その前にまず言われたことをやれるようにならないと。
就職活動を始めたばかりの僕は履歴書を書くだけで一苦労。
ほぼ必ず作文の課題がついているのが、とてもいやだ。
いやだとか言ってらんないのは頭ではわかっているつもり。
練馬に立派な練馬区役所があることを初めて知り、圧倒される。
ちょっと飽和化してきたかと思ったモデルがまた砂になる。
酷く疲れたので、ブックオフで90分くらい立ち読みする。
・浅野いにお「ソラニン」1・2巻
・福島鉄平「サムライうさぎ」3・4・8巻
・のりつけ雅春「中退アフロ田中」8・9巻
・魚喃キリコ「blue」は買う。
愛することと働くことと青年期についてぐじゃぐじゃかきまざる。
金曜日の朝は、頭が痛い。
輪っかに締め付けられるような、血管が悲鳴をあげているような、
カキ氷を食べたときのような、頭のてっぺん5分の1くらいの痛み。
母親と話す。学校の話、弟の話、父親の話。
0127: トレイニング
人と関わるときに、敬意を持つことを大事にしたい。
”愛”って言い換えてもいい。
敬意を持ててないと気づいたら、探してみようぜってこと。
ゲシュタルト療法の本が、すごいおもしろい。
ぼくは、自分が何をやりたいか、まだ全然わかってないんだ。
だから就職活動をしようにも、腰が重いんだろう。
はたからみれば、”なにたわけたことぬかしてつかる”って感じなのだろうが。
受動的じゃあだめだ。そこが肝なんだと思ったんなら、全精力を注ごうぜ。
誰だって、いつだって、すっげえやりたいやれることは、きっとあるはず。
0126: メーフルヤ
空腹感はあっても何も作る気になれず、食べる気にもならない。
前倒しで外に出て、袋に詰まった水を揺らしてやるとだいぶよくなった。
駅前のパン屋で贅沢な朝食。泣きそうになるほどおいしい。
すごいなあこれ。これすごい。
駅のホームの鏡で自分の顔を見たらものすごくげっそりしている。
まとまりのないことをもやもやと考えていたら多摩センターに着いていた。
ドトールを見つける。
大学でSVを受ける。
修了試問のリハーサルをやる。聞き手の側からでも色々なものが見える。
もうちょっとがんばろう。そして終わらせる。
そのあと大学近くのバーミヤンに入って、昨日の反省会、等々の話をする。
大した話をしたわけではなかったが、地味に刺激的だったと思っている。
・言語的にメッセージを表出する代わりに非言語的なものを表出する方法があること、
・非言語的メッセージがその曖昧性ゆえに好んで使われる文脈があるということ。
・特定の誰かになにか伝えたいことが生じたときに、伝え方に留意する必要があること、
・その内容があいまいな場合は、相手の受け入れ態勢に伝わり方が大きく左右されること、
・伝えたいことの性質によっては、必ずしも本人に伝える必要のない場合もあること。
おもしろい。人間っておもしろい。どんどん知らない面が見えてくる。
でも、知らないことを知るのは、基本的に面白いに決まっている。
肥大するとともにどんどん薄まっていくのではいかん。
自分のできる範囲で限界設定をした上で、シナプスを繁らせて密度を上げてかなっと。
そのためには、もっと具体的な作業が必要だ。それはたとえば、なにかモノを作ること。
結晶化のプロセス。
ゲシュタルト療法の本で、心理と行動をエネルギー量の高低からの一元的視点を提案していて、それ自体に「なるほど。」と思いつつ、こういう境界板を取っ払う柔軟さって大事だよなと思う。分類ってのは便利のために仕切り版をはめることなのだから、無用なら取り外すべきなのだ。理系と文系とか、感情と理性とかもきっとそう。野口悠紀雄が「「超」文章法」のなかで「二つは一つ」と読んでいたものとも似てる気がする。
話を戻すと、目に見えるかたちのものってのは、すごい沢山のエネルギーの結晶体なのだよ。
0125: ひどくペッパーなフラグメント
パールズさんの書いたゲシュタルト療法の本を見かけて、提唱者の本を読むのって大事だなと思った。それって状況を変えれば当たり前なんだけど、なにか本質的ではないものによってそれが見えにくくなっているようだ、僕は。それから多分僕以外の誰かも。「なにかに真剣になったことがない」「自分がなにをやりたいかわからない」「たくさんのことをやろうとしてしまって途方に暮れる」まさにこれじゃないか?と、脳汁が出てきたならばそれを知的遊びに落とし込まないで、自分の生き方に繋げるところまで拡げ伸ばして考えを展開するのだ。
「南瓜とマヨネーズ」「TAKE IT EASY」「痛々しいラヴ」をざっと読む。話の筋を追わなくていいようにしてから、今度はじっくり読むつもり。僕は漫画を読みながら、きっとなにかを探している。なにかはまだわからないのでとっても効率が悪い。悪いけれども繋がり続ける。でもそれを明確にするための”砂”もなければいけないのだと思う。漠然と、そうと。
”センティバル”という言葉への茫漠としたワクテカに、”scent”+”festival”というこじつけを思いついた。とても素敵。ユング派の人が神話をいっぱいこさえるのって、ちょっとこれに似たところがあるんじゃないかとちょっと思う。大学のユング派の先生に聞いてみたいが、これ説明するのが難しいし、とってもアホっぷりが出るな。うん。
0124
大学の帰りに、院の同期のある人とバスと電車が途中まで一緒で、少し話した。
この人とはほとんど1年近くの間、まともに話すことができなくなっていたのだが、
(その原因はうっすら想像がつくもいまだに不明)
今日はなぜだろうか、すんなりと話すことができたのだ。
俺はこんな風に普通に話ができたことが嬉しくて、それに対する感謝の気持ちと、
またこういう風に話せる機会が持てたらいいなという希望を表そうと思って、
「今日は君とこんな風に話せてよかった」 と言った。
すると彼女は、ちょっと戸惑った顔をして、 「え?なに?」 みたいな反応をした。
そのあと俺が吐いた言葉が、これだ。
↓
「え?わかんないかなぁ?」
言ったあとで、とっても恥ずかしくなった。
(彼女はその後、 「あ、うん、わかるよ」 とか言って電車を降りた)
恥ずかしかったが、おもしろかったので、ここに書いておこうと思った。