忍者ブログ

 [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

| HOME |

 0912: 自動装置の誘惑

金曜日はSVを受けた。
作った資料にはちょっと自信があったこともあり、終わったあとは調子が上がっていた。
そのあと新宿でMU「片思い撲滅倶楽部」を見た。
内容は随分と予想外だった。
指定席が後ろの方だったこととどれだけ関係があるのかということを考えた。

土曜日は塾の指導プログラムを作ってから、職場の人とこじんまりと飲んだ。
また変人自慢というお決まりのパターンに逃げ込んでしまった。
これをしてしまうと、こちらもあちらも反応の範囲がだいぶんと制限されてしまうのだ。
間は持つ(つもりだ)けれど、なぞっているだけで、一期(一会)性が無い。

日曜日は、2つの場所にお邪魔させてもらうのだけれど、
もっとそこの人たちと 自由に関われたら いいなあ。
でもこれは、動詞が過去形になっちゃうくらいの絶望を孕んでいる。
そんなときは大抵、体がこわばって、顔もなんだか怖い顔をしてる。

ときほぐせ。

そんで、新しく知る人と、知っている人の新しいところに、マナコを開こ。
自分ひとりでは見つからない黄金が、見つかる、かも、しれ、ナイ。
PR
| TRACKBACK: | COMMENT:0 | HOME |

 0910: 二兎を追うものは・・

どうしても関わりが自己中心的になってしまう。
踏み込もうとする方向に道がまったくなくて血の気が引く。

他者に関わるようなことで見込みの少ないことをすることを
ぼくは醜いものだと思って避けてきたのだけれど、
そうやって積もり積もった空白が肥大して、恐ろしいことになっていた。
ということを、ご他聞に漏れず、僕はすっかり気づかずにいたのだ。
そう思って思い返せば、心当たりはいくらでもある。

「ディア・ドクター」を観た。
共同体の生じさせる、漠然とした強烈な、蚊の大群みたいな圧力。と、
と、それを作り出し、それに動かされ、それからずれては戻る、生臭い人間。
がそこにいて、腹の下の下の方でもやもやとするものが残った。
同じ監督の「ゆれる」も観てみよう。
| TRACKBACK: | COMMENT:0 | HOME |

 0909: お灸の日

重陽の節句だというのに、合宿に行き損ねたあたしは1人で勉強をする。
ロールシャッハテストの9000円もするテキストは見た目ほど重くない。
この本が読みづらいという人は、勉強に向いてないのだと思う。

わたしは自転車に乗ってるときは大概ずっとひとりごとを呟いている。
力を与える演劇とやらの、力を与えるとは具体的にどういうことなのか?
ということについて考えたり、ほかのことを考えたりした。

ジュンク堂で言語療法の棚を覗きみる。
ことばの指導の準備段階で、舌や顎を使うエクササイズを紹介していた。
こういうことを知るのが、鳥肌が立つほど好きだ。
でもわたし、だからって、声が大きくなったり、飛び跳ねたり、目尻が下がったり、
友人にハートやビックリマークの多いメールを送ったりはしないしできない。
だから他の人に、「ほんとは好きじゃないんだろう」といわれると、否定できない。

心理書の新刊のコーナーで、ハエバラ先生の新刊を見つけてしまった。

南池袋の定食屋のサバ定食が手ごろな値段で、ご飯の硬さがとてもよかった。

普段はほとんど映画を見ないので、あまり好きではないと思っていたが、
ツタヤに行くと思いのほか、見てみたいなと思える作品が目に入る。
でもそれが実際に見て面白いと思えるかどうかはまた別の話なんだ。
こないだ見た「ザ・マジックアワー」は期待したほどは楽しめなかった。
今日は「渚のシンドバッド」というDVDを借りてみた。週末に見よう。
| TRACKBACK: | COMMENT:0 | HOME |

 0907: ムートン。ムートン。ムートン。ムートン。

優しさもお金も筋力も、余暇の関数だから、
余裕が無くなると、大抵は減っていく。
優しさを評価するときには、偏回帰係数を出すときみたいに、剰余変数の影響を抜いてからにしておくれ。

で、やさしさってなんだ?

「個人的な思いが強すぎて、」って、なんだ?
そんなもんあんのか?


子どもはなまらかわいい。が、どう指導したらいいのかわからん。
仕事はすげえ楽しいので、しかもお金を貰っているので、僕はもっと熱量を上げて、価値を生み出さねばならない。ヒントは保育の本?ヴィゴツキー?図書館サーチ。具体的なモチベーションがあると、本もだいぶ読みやすいだろうな。

たとえばブックオフの本を平気で買えるというのにも、ある種の鈍感さが必要となる。あそこを通過した類の本に接触すると、気持ち悪くなったりアレルギーになったりする人はいる。それは相対的に敏感ということ。

春雨を戻さずに硬いまま食べるなんていう、心がすさむようなマネをしていたら、ホチキスの針が混入していてまじびびった。
| TRACKBACK: | COMMENT:0 | HOME |

 0906

水曜日は国分寺大人倶楽部「グロテスク」を観た。
脚本の構造がシンプルで、ストーリーがとても見やすかった。
あの雰囲気を作るのは、演出家が酷く繊細な感性なんだろなと思った。
舞台設定(特殊な学習塾)がとっても自分好みだった。

金曜日はカムヰヤッセン「トラベリング・オン・ザ・シャーレ」を観た。
個人的な思いが強すぎて、作品について書ける気がしない。

日曜日はポかリン記憶舎のワークショップに参加した。
前半の体の状態を作っていく作業は、意識が少し広がって楽しかった。
後半の戯曲を使ってシーンを成立させていく作業は、難しかった。
普段の生き方が表れる。

変化するということ、力動的なものに、最近とても興味がある。
(また抽象的なことを言いやがる)
変わることの変わり方。変わらないことのありかた。
変わることの機能。変わらないことの機能。
演劇というものは、観る人によって見えるものが異なる要素が強い媒体だと思う。
同じものを提示しても、そこに感性のある人が観れば明確な何かを感じたり、それを提示する技術に感心したりするが、別の人はそれに対してなんとなくもやもやした感じを受け取るに留まるかもしれないし、また別の人はまったくそれに気づかないかもしれない。
感性だけでなく欲求にも大きく影響されるだろう。演劇は一度に提示される情報量が多いので、必然的に選択的知覚が生じる。人は見やすいものを見るだけでなく、見たいものを見る。
まず第1段階として、そういうことに敏感になりたい。このあたりが心理測定学の理論と繋がってくる、というのは脱線だから置いといて。どういう生き方をしてきたどんな人がこの芝居を観たら、どんなものを受け取るのだろう?不確定要素である観客まで含めた領域で芝居を成立させること。
僕がなんとなく思うのは、芝居はお金を払えば誰でも見ることができるけど、つまり観客が作品を選んでいるようだけど、その一方で、作品も明らかに観客を選んでいるということ。だから棲み分けが生じる。
第2段階として、それを超越したい。超越なんて言葉はあまりにも大きな言葉すぎて使うのが恐れ多い。飛び越える、とか、はみだす、とかいう言葉を使った方が近いかもしれない。ある観客がある枠組みを持っていたとして、芝居を見終わったときにその枠組みがちょっとだけ変化する、そしてそれに気づくような、そんな芝居。演劇にはそんな力があると思う。演劇、演劇、いや?肥大でない形の変化。腹の中にしこりを産みつけるような芝居。なんのこっちゃ。
| TRACKBACK: | COMMENT:0 | HOME |
BACK| HOME |NEXT

プロフィール

HN:sunasand

個人的なメッセージは
”sunasand★livedoor.com”
宛に送ってください。(★を小文字@に変えてください)

カウンター

最新記事

(09/12)
(08/23)
(08/18)
(08/17)
(08/12)

ブログ内検索

アーカイブ

カテゴリー

リンク

アクセス解析