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 0626:

カムヰのwebはさくさくと楽しく作れるのに、
火男のwebについてはなぜ腰が重くなるのかと考えると、
僕が自分の言葉を他人の言葉に翻訳するスキルが低いのが一因ではないか。
と思うのです。
北川くんは、
1.自分の立ち位置を明確に宣言してくれるし、
2.僕との距離を上手に調整してくれるし、
3.そもそも僕との初期立ち位置が近い
ので、僕は随分と楽をさせてもらっているのです。
これは僕の力を引き出すのが異常に巧いと言い換えてもいい。
(そのあたりが逆に恐ろしさを感じさせたりもするのだが。)
火男とのやり取りでは、立ち位置を探ったり距離を調整したりという作業を、
webをいじる作業と併せて行わなければならず、それに僕は消耗してしまう。
山田ズーニーさん(マイブーム)の受け売りだが、社会人スキルなんだぜこれ。
だからねえ、がんばるよ。火男web。

で、話は変わって。
おとといは就職面接っていうか、文部科学省に官庁訪問に行っていたのだけれど、
今日は2つ目、厚生労働省に行きました。
そしたら面接は後日行うってんで、予約して履歴書渡して終わりでした。
時間が余ったので人事院の官庁訪問相談コーナーというところに行ってみたら、
各省のパンフレットを配布している上に、人事院の職員さんが相談に載って下さって、
僕が圧倒的に準備が足りてない=面接官が気になるであろうところを少し明確にできました。
嬉しかったので書いておきます。

しかし、実際にそれぞれの省庁の職員さんが話して動いているのを直接目にすると、
それぞれに特徴というか、カラーというものがあるのではないかと推測が働く。
偏見かもしれないが、家裁の人は芸能人かってくらいに清潔感をかもしだしてるし、
文科省の人は遊びゴコロに溢れているように思えた。
そして、人事院の方がとても穏やかですてきなオーラを出してんだ。
たぶん、業務内容と精神性がなんかリンクしてるんだと思うんだよね。
そういうの好きな人が集まるし、そういうことやってるうちに性格も変わっていく。
っていう、思いつきの仮説。
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 0625:

昨日11時からの飲み会でオールなんてしてしまったので、今日は休日にして、こまこまとした用事を片付けることにした充電日。常勤職で働くには、僕は電池が切れるまでの時間が短すぎる。秋からは、とりあえず週5日で働けることを目標にしてみよう。

証明写真のデータCDをDPEショップに持って行ったら、たった10分、わずか1枚35円で焼き増しをやってくれた。なんだこの超絶なシステムは!全然知らんかった!!!科学技術ってのは、おっそろしく根底から地域の生活を変えるな。

図書館で予約していた電撃Hpが届いたと連絡が来たので取りに行き、「メタル・グゥルー」「ロンドン・コーリング」「チャリオット・チューグル」そして「枢機王狙撃」を読む。電撃Hpは一昔前を感じさせる装丁をしていて、別に当時読んでいたわけでもないのに、なんとなく懐かしくて嬉しくなった。

文化庁と著作権から連想して、古本屋と図書館のもたらす影響を考えたくなる。国がやっていることで僕の生活に全く関係のないことって、意外と少ないんじゃないか?

そして、小説のコピーを取りながら思った。これは文化の「消費」行為だ。僕は間違いなく何かを「消費」しているのに、それに結構無自覚だ。消費と生産というものは対極にあるのに、それらはしばしば混同されるのではないかと思う。愛することと壊すこと。研究会という名の勉強会が乱立していることを思い出す。Scientist-PractitionerモデルのPractitionerが、日本では研究者と訳されているが、本当にそうなのかと疑問に思うがこれは多分別の話。それから行為者と被行為者も混同されやすかないか。壊すことと壊されること。これも別の話か。精神分析的。
(※追記・・・研究者でなく、文字通り科学者と訳していることも多いらしい。偏ったサンプルを見てた。それでもこの言葉が正確な意味で受け取られているとは思えない。)

公園を散歩しながら、最近聞いた話をぐちゃぐちゃ繋げてかき混ぜて考える。役割分担を明確にすることは、代替可能性の低下を引き起こすんじゃないかとか、打っても響かないものを規則で処理することは、社会人ならば真っ当なのだろうが、臨床家や教育者だったらなにかほかの第一選択肢を用意してほしいなとか、じゃあ、僕はそういうときにどうするか? とか、考える。

一人称の「私」を慣れないながらも濫用していると、こいつが新しい自分を引き出してくれるのではないかという期待に思い至る。というのは、僕が使う「僕」「俺」「あたし」は、基本的には主観的な自我を指しているのだが、「私」は客観的な自我を指すのに具合が良いのではないかという気がしている。言い換えれば、他人に対して自分を提示するのに、「私」という言葉は「使える」のだ。
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 0624:Pawn Shop

 私が私の頭の中にあることを言葉にしようとしたときに、説明不足になってしまうことがよくある。誰にとって不足なのかというと、私以外の読み手にとって、だ。
私自身は書かれていることを既に知っているので、多少言葉が少なくても、補完して意味が通じてしまう。極端な話、いくつかのキーワードを並べただけで一連のストーリーが再生できることもある。
 ところが私以外の読み手は、まだ書かれていることについて知らない。私に面識がある人は、もしかすると私についての知識を動員して、多少は補完ができるかもしれない。それでも限界があるので、私が読むようには意味が通らず、意味不明感が生じる。

 なにが言いたいかというと、人は、ものを読むときに、目に入ってくるものと、頭の中にあるものとの両方を読んでいるのだ。そして、目に入ってくるものは誰が読んでも同じだが、頭の中にあるものはみんな違っている。
 このことを知っておかないと、知らず知らずのうちに意味不明感を量産することになる。そして大抵の場合、人は意味不明感が増えることを好まないので、その言葉は敬遠される。
人に意味を伝えたいと思うなら、自分にちょうどいい言葉と、他人にちょうどいい言葉のずれを把握して、後者にシフトする作業が必要なのだ。世の中にはこれが無意識レベルで瞬時にできる人がいるが、私はこれが苦手で、意識してもなかなかできない。

 また、そもそも人に意味を伝えたいという意識自体が薄いような場合もよくある。そのような場合は、できる/できない以前にやろうとしないのだから、無意識にできてしまう人でない限り、伝わりやすいものにはなりえない。
 私はこのブログで、「沸いた感情を吐き出したくて」記事を書いたり、「頭に浮かんだことに言葉を与えて整理したくて」記事を書いたりすることが多いのだが、そのようなとき、「読み手に伝えたい」という目的は意識されないか、重視されない。人に意味を伝えようと思ったら、自分が読む分には不要なことを追加する必要が出てくる。逆に自分にとってもっとも読みやすい文章は、人にとっては必然的に意味不明な文章になる。2つの目的を両立させるだけの文章力が私に不足しているために、トレードオフが生じるのだ。
 それから、目的をあまり吟味せずに書き始めることもしばしばある。たぶんブログで記事を書くのはとても簡便で、しかも誰かに頼まれてすることでもないのが原因だろう。そういうときの文章は、いくつもの目的が入れ替わり立ち替わり顔を覗かせ、あるところは説明過剰になり、またあるところは説明過少になるといった、非常にムラの多いものとなる。そんなものを書くくらいなら、いっそ自分のためと割り切って、人にとってはまったく意味不明な文章を書いた方がいいと思う。

書き疲れたので一時中断。
続きます。

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 じっとしていられない

「タバコ狩り」という本が書店に並んでいたので、買ってしまった。
言いたいことは沢山あるけど、汚くなりそうだからやめよう。
なにかを発言するとき、「どうやって言うか」何を言うか」も大事だけれど、
「何のために言うか」によって、全体的な色合いが大きく変わってくる。
僕は調停のために動いていたつもりだが、著者がそうでないことはわかった。

カムヰヤッセンという後輩の劇団のwebサイトを作りました。
シロウトなりに、無駄にリキ入れて作ったので、暇だったら見て見て。
(北川くんのディレクションの明確っぷりはヤバい)
そのついでに濃紺トロ~ルのwebも表紙だけ突貫で作りました。

そしてあたしは、ありがたいことにまた就職活動を続けさせてもらえるようで、
明日っから次のラウンドが始まる。
地面にかかとをつけたまま、背筋を伸ばして背伸びをするわ。

祖母がヤクルトをくれた。 「これを飲んで元気出して。」
嬉しい。
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 0621

しばらくぶりに実家に帰って、父親ともちょもちょ話す。
こういう、目的的には生じがたいけど結構重要な接触ができるっていうのが、
物理的に近いということの、ひとつの大きなメリットだと思う。
人ともそうだし、場所ともそう。
僕は祖母と5年間、それ自体はあまり意味のないやり取りを重ねてきたのだし、
この町ともきっとそう。

もちょもちょ話して、何度か「なるほど」と思う。
やっぱり僕の中身も結構な割合が父からできているのだなぁ、と再確認する。
父親の行為は、無意識に真似したくなる。

昔の昔の、忘れてたような、あるいは思い出したくもない人生の危機について。
具体的には小学時代に先生が乱心したのと、大学時代に留年したこと。
面接試験で自己PRをするならば、それと、それに対処してきたプロセスと、
その時に引き出したことを語ればいいじゃないか、と父は言う。

それから少し話は逸れて、僕が大学受験が上手く行ったのは、勉強方法が
ブレなかったからだ、と父は言う。
人が実力を発揮できないのは、大抵の場合、不安に駆られたり、誰かにうるさく言われて、
あれもこれもとやってしまうからだと言う。
飽和の時代の課題。

2つの話とも、聞いた時点でピンと来たので、とりあえずストックしておく。
だけどそれを僕がどう使えるかは、僕が僕の今の布置を考えないとわからない。

今日読んだ本に載っていた、「複線径路・等至性モデル」という言葉に、
自分の名を見出して、妄想的な直観を抱く。
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