戯言ヲトメツバキ(完)
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1217
昨日から今日にかけて、何人もの人に助けてメールを送って、時間を作ってもらって、話を聞いてもらった。僕は、こういうことが本当にできなかった。
今も別に、できるようになったわけではない。
ただ1回できて、2回できて、3回できただけ。
この苦手は、まだ依然として僕の中に帯び帯びている。
現に、次に話を聞いてもらいたい人にメールを送るのをめったら躊躇っている。
でも、1回できるまでが本当に長かった。
小さな一歩、偉大な一歩。
何かが変わり始めているんだと思っています。
気は抜けない。
昼に気を引き締めるために、夜は全力で気を抜くための努力をしよう。
ただし、それは力まない努力。
油断の魔の手、揺り戻しの誘惑。
結果として、だいぶ楽になったのだが、それゆえに気をつけねばならんのが、
「けっして、楽になろうとしてはいけない」ということ。だろう。
結果としてそうなるのと、最初からそこを目指すのは全く異なるのがこの場合だ。
助けるんじゃない。君が助かるんだ。
ああ、だから、手を貸してくれ。
ぼくはまだそこまで立派な風には、全くやれていないが。
未来を閉じないで。
拒絶も覚悟して。
相手のことを想像して。
分からなければ聞いてみて。
ちょっとずつ。
ちょっとずつ。
ちょっとずつ。
1215: 論理的にウェイウェイアー
・・・。
カスカンドはベケットの芝居で、岡田利規が演出していた。
ゴルポボ。
アノリ。
ここにあるものしか書けない。
昨日はまた恥ずかしいものを書いたと思う。
ここにあるものしか書けない。
ここにあるものしか書けない。
ここにあるものしか書け ない。
*ここ=机の上
修士論文を書くのにすごい苦労をした。
今日もこれからすごい苦労をするんだろう。
こんな苦労をすると思ってなかった。
こんな「に」じゃなく、「こんな」苦労。
こういう類の文章を書くのは、また特別なリテラシー(あるいは高い水準)が必要なのかは分からないが、ぼくは自分にそれが不足していることを知った。
凹むわ普通に。
それでもまだやらんといかんので、萎える。
力が脱けると書いて、脱力する。
こんなちっぽけなことで、さぁ。
でも僕は、こういうことを吐き出すことで、「こんな状況だけれども、それでもなんとかやっていこうかと思える状態」に入ろうとしている。ボキ、ベキ、じゃない、ブキ用、不器用な おれーぃ(一人称)。
紙に書いたものを、パソコンで再び打ち込む。
その作業が嫌いじゃない。(だけども面倒くさい)
でもね、ディムゥオネ、クィ、キ、嫌いなことも、やらんとね。
僕には僕のスタイルがある。
僕自身がどう変わっていくかということも、そのためにどんな刺激と環境に自分を曝すかということも、全部含めて、僕のスタイルなのだ。
ゴズオリ。
特別な空間。
カウンセリング空間のことだ。
僕は、今の極めて漠然とした関心の状態から、何が足りないか、何を取り入れ、どちらへ向かうべきか、決める。
修論だって同じようなことが言える。
(中略)
(後略)
1214
たとえば大学院に入ってからの1年半で、どんなことができるようになったかとか、その上でなにが足りないかとか、そもそも元々どんな力を持っていたかとか、そういうことを認識するのはとても重要なことに思える。それはほかの人がヒントをくれることはあっても結局のところ自分で見つけるしかないし、そしてそれを見つけるためには「本当に自分と向き合う状態」に入らなければならないのだと思うのだが、今の僕にはそれが難しくて、少し困っている。
自分の顔が、わからない。
鏡の無い世界。
これ、怖い。
愛は、あるのだが。
とても未熟な愛だけれども。
世界に対して、隣人に対して、自分に対して、便宜的に「愛」と呼んでいる、ある種の感覚は、実感している。
のだけども。
反対に、ほかの人が僕に向けてくれるものは、とても感覚が薄くて、あるっぽい感じはとてもあるのだが、すごいあやふやで、なんといったらいいのやらという感じ。
愛なんて風に呼べなくて、「ヴァ・・・ヴぁい?」とか言ってしまう。
話は飛ぶけれど、僕はしたいことが沢山あって、でもそのほとんどはしないままで時間が過ぎてしまっている。そのひとつに、僕がここでブログという形式でなにやかにやを延々と垂れ流し続けていることが一体なんなのかということについて、自分なりに暫定的でもぴったりくる言葉を見つけてやるということがある。
それと関連して、フィクションというものに対して僕がどのように関わるべきかということについて、やはり暫定的でも、重心をしっかり預けられる言葉を見つけてやりたいということもある。
ああもどかしい。
かゆい。かゆぅ・・・・ぐない。かぃい。
なんで話が飛んだかというと、前半で書いたような、そういう切実な(かつ現実逃避的なニュアンスをたっぷり含んでいる)トピックをここで書くことの意味を僕は考えなくちゃいけなくて、今それについて心・その他をゆったり用意してやることはできない、(今まさに現在進行形で言葉がつるつると滑り始めている。絶望!)つーかしないでおこうと思うのだが、でも広げた風呂敷は一旦閉じておいた方が絶対にいいと思っていて、(なんせ僕はオチをつけたりまとめたりするのがすこぶる苦手だからして、放っておくとまずほとんどの場合広げっぱなしになってしまう、)後半は前半で広げた風呂敷を閉じるための試みであったりするのだ。
とかいってるが、よくわからん。よくわからんが、おわり。
1211:キモチヅナ
惚れた女性の名前を劇団名に盛り込むというハヅイマネを、そういえば僕もしていたっけ。
わたしの常識は、あなたの非常識。関心はズレている。身体もズレている。楽しいのは摺り合わせ。苦しいのは摺り合わせ。ゴリゴリ言わしながら、新しい面が見えてくる。歯の隙間っから奥っから、苦い緑のコナコナがぽろぽろとこたぼれてくる。僕は紺色のメンソレータム。徹夜の作業に伴うモロモロを引き受けるだけの、覚悟のトリガーを見つけにゃならん。
ごはん食べてますか。
「自分の説明書の作り方2010」という本を読んで、就職活動についてだいぶ前向きになる。僕はこういうことを考え始めるのが、母集団と比べて15%くらい遅かった。たぶん他の色々はもっと遅いのだろう。セージとかケーザイとかコームインとかが何なのかもほとんど知らない。この風呂敷は、まだ結び目を解いたばかり。これから中身がばら撒かれて展開して、世界の見え方は二転三転するだろう。心理の外側に置いてみる。心理の内側に向けてみる。さあ、
さあ、はじまり、はじまり→でも一体 何が?→(女、男の背中に向かって飛び蹴り)
朝の、嗅覚と触覚が支配するシーン。
石焼きいも屋の、焦げたにおいと、肌をとりまくぴんとした寒さ。
水彩絵の具の橙を無造作にぶちまけたような朝焼けの空も、遠くの車の駆動音がよく聞こえるのも、このシーンの構成に一役なり買ってるんだろうが、それでも脇役にすぎない。
僕はこのシーンが大好きだ。
1209:声を出さずに僕は笑う
ジャガイモが煮崩れしていた。もっと大きくきってよかったのだろう。
小松菜は入れなくてもよかったかもしれない。
肉を入れることはそれ自体もそうだが、油が出ることも全体をまとめるのだろう。
全体的に歯応えが弱かった。ゴボウとニンジンを入れたい。
今年のうちに1度、味噌の汁に挑戦してみたい。
テストで点を取れるようになることと、学ぶ力をつけることは、人によってはだいぶ違う。
拡げた風呂敷はちゃんとたたむ。次のときにまた開く。拡げっぱなし、とは、違う。
日曜日に木引の芝居を観たあとで、渋谷で元サークルの後輩と酒を飲んだ。
矢薙の言った、「遠藤さんはサワヤカになった。前はもっとギトギトしてたのに。」
という言葉の表すものを、ちょっと考えてみたいと思って、まだやってない。
意志の弱い僕だから、自分を実験台にして、どういう条件を整えればレールに乗れるのか、試しながら考えてみている。
種が蒔かれたということは、膨大な個数の風呂敷包みが並んでいるということだ。
時間は有限。気力も有限。
何を広げるか、そしてそして、何を広げない、か。
グレート生活アドベンチャー。
昨日のタスクを追うことで、昨日の僕と今日の僕は、ちょっと距離を詰められる。
重なったとこだけ、ちょっと影が濃くなる。
いひひ。