戯言ヲトメツバキ(完)
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1024
・どうやら10月が終わりかけているようだが、今年の下半期がまだ1か月しか経ってないということにびっくりする。長かったとも短かったとも違う感覚だ。'え、まだそんなしか経ってないの?'は、'長かった'とは違う。
・バランスコントロールと、ミッションコンプリートの両輪が必要なのだと思う。バランスとは見えているものに対してしか取ることはできない。見えてないところは偶然のままにバランスが崩れまくっていることは考えておくべきだ。
・フィクションのつくりかたを考えよう。演劇を降りてもフィクションは生活にあふれている。事例研究や例題もそうだし、何より人の日常に嘘はあふれている。嘘の親戚、欺瞞や建前や隠蔽や誤誘導もあふれている。
・1日経ってから、あの言葉が社交辞令だったんじゃないかという可能性に思い至る。ネガティブアイデンティティとも少し違う。意味の不明な違和感だったものが、具体的な可能性に成ったのだ。その可能性は十分にあり得る。これは僕の'真に受ける'性質。長所にも取れるが、楽をしていることもある。
・柔軟と筋トレの合いの子のような5分間で、忘れてた身体感覚を思い出す。僕はずっと僕だが、つまり同一性は保持されているが、明らかにさっきとは状態が異なる。
1023
僕はいつのまにか辺縁を探る癖がついてしまっていて、一度見つけたものに対する関心が薄い。同じものは一度見つけるだけでなく、何度も何度も見つけてくことができるのであるのに。
僕は自信を持つということを久しく忘れてしまっている。自分の内部ではとても強く確からしいことも沢山あるが、一歩僕の外に出てしまうと、そこでも果たしてそれが成立するかということに対してまったく確信が持てない。同じようなパーツでできている僕ら人間は、まったく違う中身を持っているかもしれない。僕は自分の中で精製したものを外の世界で試す、ということをずっとおこたってきた。'必要ないさ'と思ってた。
だから僕がここで語る言葉っていうのは、他人に向けた言葉ではない。意識は他人に向いているけど、形式はまったく僕の内部システムの様式だ。変換作業、翻訳作業ができていない。あるいは、僕とあなたがたの間で共通に成立する言語が僕には育っていない。
だからおそらく僕のこの言葉が人に届くのは、断片的なものかあるいは、とんでもなく深い理解力の持ち主が、不親切な僕の言語という壁をやすやすと飛び越えて、その中でくすぶっているものを読み取ってくれるかの、どちらかしかないと思う。今は。
僕が時々、'君は年上の女性が似合っているよ'と言われるのはおそらく、他者に伝える言葉を持たない僕のことを、その深い理解力で持って読み取ってくれるひとならば、僕の短所を補って、親密な交際に必要なだけの意思疎通が可能だと思ったんじゃないだろうか。そういう風に舌足らずな言葉で自分を分析するのはとても自己嫌悪を抱くが、まったく満足していない踏み台として割り切れば、即座に消すほどのものでもない。
お察しの通り、少しだけ錯乱している。多分これは錯乱と呼べるだろう。自我をはみ出てきている。多分このブログの1つの機能には、自我をはみ出したものがすぐに直接的な対人関係に侵食する前に、このブログにはみ出すことで、それを少し吸い取って、押さえることができるというものがあるのだろう。そんな使用済みの緩衝材は、決して人に見せたりするものでないと考える人がいるのは分かるつもりだ。願わくば、これが単なるそういうもので終わるのでなく、次に進む推進剤になるといい。
当たり前のことをちゃんと言葉にしていくというのは、僕が当たり前のことを言葉にするのをおろそかにする、という癖を持っているという背景においてはなおさら、重要なことだ。
世の中の人がなぜ新聞を読んだりニュースを見たりしているのかが、昔は疑問で、ちょっと前からは、'意義はよく分からんが、とにかく知っておかねばならないらしい'などと思っていたが、もしかすると、そうすることで、世界や社会、つまり自分の五感によって感じ取れるよりも広いものについての、モデルを頭の中に構築できるのかもしれない。僕が参考書を読むのと同じ理由だ。自分の体験はかけがえのないものだが、多様な体験を可能にするにも、体験できないことを補うためにも、本などの間接的な知識は重要だ。本に溺れては失うものも大きいので、バランス感覚はそれと別にあるとよいのだが。
図書館に全部あったので、刀語を最後まで読んでしまった。インパクトや痛快さは戯言や化物語シリーズより弱かったが、そして長いと思ったが、この人が表したかったことは、この12か月連続刊行の形でこそ生きてくるのだと、漠然とながら思う。泥臭さのない世界で、歴史の概念とか、肯定と否定とか、今まで知ってたものを、また1ページ見つけたような気がする。
現実に何かをしようと思うならば、現実の規則という糸の上をうまく歩けなければなりゃない。
1人で生きるには、この人生というものは長すぎるのだきっと。
僕が目指すプロというものを考えている。
1021
のは、置いといて。
荘野ジュリさんの声と音をニコ動で聴いて、言葉をブログで読んで、
すごい好きになっている。
電光石火で落とされた。
どきどきが止まらない。
CD借りるか。むしろ買うか。
なんでこんなに嵌るんだろう。
いまの・ぼくの・敏感な点に響く響く響く。
嘘を並べてもしょうがないから
少しだけ
ブログをお休みしました
すごい、いいなあ。
僕といえば、しょうがない嘘を捻り出して、翌日後悔したりしてるしょうがない。
それはそれで、なにかある気はしているんだけども、鈍感の発露と正当化は疑い得ない。
Enter.
2人で話したいこと.
2人で話したいぼく.
2人では話したくないきみ.
2人では話したくないこと.
ぼくはきみに,何がしたい?
ぼくはきみと,どうなりたい?
ぼくはきみと,何がしたい?
ぼくはきみに,どうなって欲しい?
ぼくはきみに,何をして欲しい?
こういうことを,言葉にするのは,なんと難しいことだろう!
こういうことを,僕が言葉にする能は,なんと低いのだろう!
Enter.
「関心を高める関わり」「見立て、介入見立て」「見立てに基づく介入」「成果の観察・自己FB」「課題・目標の観察・自己FB」「定着のための宿題」「宿題に対する具体的な手続き」「主訴の確認更新」「外での出来事確認」
1019
友人の勧めで、アリナミンAの錠剤を買ってみた。効果の実感はまだない。
よく知らんくせに、英語を人に教えている。罪悪感が膨らんでいく。
木下康仁先生、西條剛央先生、James Prochaska先生の著作を行き来する。
僕が住むこの町は、文の京とか言ってるくせに、池袋まで行かないと大きな本屋が無い。
待てることは大事。。感覚で理解する(根づく)ことも大事。バランスは大事。
友達。なにそれ?
僕が考えた人間と世界の着想なんて、とっくの昔に有名な哲学者が似たようなことをもっとしっかり言っている。先人の知恵とこの僕を有機的に接続したい。げば。
サナギさんをまとめ買いして、SIRENとバロックのプレイ動画をニコ動で観て、偽物語を読んで、岡崎京子のpink(愛と資本主義!?)以外の漫画を読みたい。カラオケに行きたい。
昨日は臨床心理士資格試験 in 東京ビックサイトもといビッグサイト。あひるの通しをブッチしてしまった。ごめん金崎。こういうミスはあんまりしないんだが。
i podで同じ1曲をリピートして聴くのが今の僕を支えるのに割かし役立つことに気づいた。
1016
人間には、類似しているもの同士や、接触していたもの同士を同じものとみなすような傾向がある。ということを指して、「宗教的世界観」と呼び、そのあとに続けて2つくらいの、それに取って代わる世界観について論じた文章を前に読んだのだが、なんだったか思い出せない。
僕がなろうとしているもの。心理士で、プロで、大人で、子供で、男で、物語りで、自分。人間人間人間。
整理してみよう。
いや、できるわけがないのだが、しかし、それでも。
と、いうのが『有人衛星プロジェクト』。
いきなし頓挫してますが。
スタートダッシュ成功、ただし直後にスニーカーのヒモ踏んづけて頭からトラックに直撃、みたいな。
僕が言いたいのは、くっついて接触して隣接して、いて、相互に影響を与えているものを、同じものだと見るな。裏表だと見るな。裏と表だって切り離せる。運命共同体の程度はさておき、分節の境界線をぶつりと切るのは、相当度胸のいることだと思い給え。ということだ。
とは言っても世界には、生きてるだけで毛穴から度胸が噴き出てる人間もいるもので、切られずに残ってる分節は、そういう人間に切られるためにだけ存在している。でもそれが、彼女にとってそうなだけで、歩き始めたばかりの僕には手放せない手すりだったりする。かもしれない。
なんか個人のそうエネルギーというか存在の総体というものが、様々なドメインに異なる重みづけで分布しているイメージがあって、例えばどこぞのハリ子さんは、身体に比重があるのかなぁとか、最近のブログを読むと思う。するとその布置がシステムとして持つ性質を、ははは、知りたいものだな。星座みたいだ。ゲラゲラ。心理検査のプロフィールを読むのはそれの相似形(縮小形)みたいだ。常に力動的な側面で見なければならない。システム。回路。静的に地図を読むのも意味はある。スイッチが入る。血液が巡る。ゲラゲラ、ゲラ!脈が打つ。節目節目が鈍い光を放つ。
それと、やはり自己言及というのはなんにせよ難しくて、だからそれを取り除くだけでも1つのパラダイムができてしまうのだ。だからそれはスイッチのオンとオフにすぎなくて、どちらが正しいとかそういう話ではないのだきっとろう。
僕は自分の見てる世界をアリアリと描くことはできずに、代わりに僕が見てる世界の幾分かと僕が見てる僕自身を頼りなげに映し出す。
「アリる」という、まったく意味の分からない動詞を思いついて思いのほか気に入る。「富樫ー、アリっちゃえよ!」こんな遊びをしてるから僕は駄目だ。
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