戯言ヲトメツバキ(完)
言葉にならないものを、少しでも言葉にしようとしていました。
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
| HOME |
0219: スイングしてやがらぁ/自分ちゅ額縁を外す
胃袋を埋める、ちゅうんは、色々なことの一時的な代わりになる。
とかとか言うてる時点で既に大事なことがザルになってる予感、めっちゃ。
ぼくは怒り系の感情を言葉に乗せて吐き出すのがほんと下手糞だ。
それはもう、言われんでもわかってるので、言ってもらっても何も変わらない。
すごく重要な他者に言われたら、動くものがあるのかもしんない。
口に出さなくたって、イライラしているときはイライラしている。
そして、イライラしているときは、人のことをちゃんと見るのはすごい難しい。
つまり、本当の意味で優しくなるのは難しい。
あたしが解離というテーマに惹かれるのは、
解離というのが、「変容する状態」という人間の正常な精神機能の障害だからだ。
最近は、
(最近、という言葉を使うとき、それが何を指しているのか具体的にするべきだと思う)
芝居が終わってから、自分の状態の移ろいが比較的細かく見えていると思う。
でもそういうときはほとんど必然的に、外が見えなくなっている。
し、自分で思っているほどは、自分のことも見えていない。
私が誰かに親切なときは、たいてい、誰かのために動いているのではなくて、
誰かのことが好きな私自身のために動いている
のだマップ
とかとか言うてる時点で既に大事なことがザルになってる予感、めっちゃ。
ぼくは怒り系の感情を言葉に乗せて吐き出すのがほんと下手糞だ。
それはもう、言われんでもわかってるので、言ってもらっても何も変わらない。
すごく重要な他者に言われたら、動くものがあるのかもしんない。
口に出さなくたって、イライラしているときはイライラしている。
そして、イライラしているときは、人のことをちゃんと見るのはすごい難しい。
つまり、本当の意味で優しくなるのは難しい。
あたしが解離というテーマに惹かれるのは、
解離というのが、「変容する状態」という人間の正常な精神機能の障害だからだ。
最近は、
(最近、という言葉を使うとき、それが何を指しているのか具体的にするべきだと思う)
芝居が終わってから、自分の状態の移ろいが比較的細かく見えていると思う。
でもそういうときはほとんど必然的に、外が見えなくなっている。
し、自分で思っているほどは、自分のことも見えていない。
私が誰かに親切なときは、たいてい、誰かのために動いているのではなくて、
誰かのことが好きな私自身のために動いている
のだマップ
PR
0217
食ってばっかり、寝てばっかりの日だった。
夜にカムヰの稽古を見学させて貰う。
踏み込むこと。自分に引き付けて、具体的にする。
北川くんの持つポップさは、なんだろう、ポップさと呼びたくてたまらない。
でもそれがすごいのは、根っからポップでは微塵もないところだ。
夜にカムヰの稽古を見学させて貰う。
踏み込むこと。自分に引き付けて、具体的にする。
北川くんの持つポップさは、なんだろう、ポップさと呼びたくてたまらない。
でもそれがすごいのは、根っからポップでは微塵もないところだ。
0216: シータ・スィータ
気がつけば、一週間が過ぎていた。
たぶんマトモに聞いたり話したり動いたり、は、できてなかったんじゃいかと思います。ほとんどすべてのエネルギーは内側をカイフクさせること等にあてがわれていたと思うのですいきなり早速訪れた、ミニマムでクリティカルな危機を。
を。なんとかする、に、なんとかならないため、に。
半透明 で スケスケ になってしまっている自分から戻ってくるためにできること、はいくつかあるけれど、それを実行してから効果が表れるまでにはすこしタイムなラグがある。だからその間はまた別のトォーンの不安に耐えねばならない。私は強くないし、きっと強くなれないし、と思うし、でもそれでも良く生きることへの希望や期待は微塵も揺らいでないこと、微塵しか揺らいでないことに気づいてちょっとびっくりする。これは長く続くかもしれないし、すぐに終わってしまうかもしれない。でもこの瞬間にそれがあることはとてもとても信じられるし、そう、だからこれがまさに僕が延々とお題目に掲げてきた、"信じるということ"なんじゃないかと思ってみる。
心当たりは、ちゃんとある。
我ながら、なんとも"少女"なブログを書くなぁ、と呆れる。呆れるけれども、続ける。
沸騰させたせいで味噌の香りがほとんど飛んでしまったけど柔らかく煮えた鶏肉と人参と大根が最高な味噌汁的なもの。
通勤途中の電車の中でフジファブリックの銀河を聴きながらちょうど5分間ずつ片足立ちで過ごして地面をしっかりと踏む感覚を手に入れること。
わたしのちいさな黄金。
たぶんマトモに聞いたり話したり動いたり、は、できてなかったんじゃいかと思います。ほとんどすべてのエネルギーは内側をカイフクさせること等にあてがわれていたと思うのですいきなり早速訪れた、ミニマムでクリティカルな危機を。
を。なんとかする、に、なんとかならないため、に。
半透明 で スケスケ になってしまっている自分から戻ってくるためにできること、はいくつかあるけれど、それを実行してから効果が表れるまでにはすこしタイムなラグがある。だからその間はまた別のトォーンの不安に耐えねばならない。私は強くないし、きっと強くなれないし、と思うし、でもそれでも良く生きることへの希望や期待は微塵も揺らいでないこと、微塵しか揺らいでないことに気づいてちょっとびっくりする。これは長く続くかもしれないし、すぐに終わってしまうかもしれない。でもこの瞬間にそれがあることはとてもとても信じられるし、そう、だからこれがまさに僕が延々とお題目に掲げてきた、"信じるということ"なんじゃないかと思ってみる。
心当たりは、ちゃんとある。
我ながら、なんとも"少女"なブログを書くなぁ、と呆れる。呆れるけれども、続ける。
沸騰させたせいで味噌の香りがほとんど飛んでしまったけど柔らかく煮えた鶏肉と人参と大根が最高な味噌汁的なもの。
通勤途中の電車の中でフジファブリックの銀河を聴きながらちょうど5分間ずつ片足立ちで過ごして地面をしっかりと踏む感覚を手に入れること。
わたしのちいさな黄金。
0214
水面の上と下をアップアップしながら時間軸上は横に動いている。水面上と水面下では見える景色がだいぶ違うのだが、それらをうまく統合しなくてはいけない。わたしはわたしから中々距離が取れない。一番なんとかしたいことは、今の仕事のこと。
土曜日は雪が降った。行政の勉強をまた始める。院の同期と新年会で集まり、その後芝居の座組で集まる。酒を沢山飲むが暴れることはない。ぽつぽつと話をしてなにかが積もってく。誰かの誕生日は言葉に出して祝えなかった。
日曜日は昼に目を覚まし、そこから桜美林大学内のダンス公演とアゴラ劇場での芝居をハシゴする。芝居の感想文はコリッチのページにまとめて書くことにした。
こないだ共演した、猫みたいに笑みを浮かべ、すごく楽しそうに身体を動かす人と、電車の中で話をする。彼女の人物描写がすごく的確。もやもやとしていたことに新しい色が加わり解像度がミリリと増す。チリチリしていたことが、もうちょっと別の立ち上がり方をする。
白のダッフルが似合うと言ってもらったことが複雑だけれどとてもうれしい。
土曜日は雪が降った。行政の勉強をまた始める。院の同期と新年会で集まり、その後芝居の座組で集まる。酒を沢山飲むが暴れることはない。ぽつぽつと話をしてなにかが積もってく。誰かの誕生日は言葉に出して祝えなかった。
日曜日は昼に目を覚まし、そこから桜美林大学内のダンス公演とアゴラ劇場での芝居をハシゴする。芝居の感想文はコリッチのページにまとめて書くことにした。
こないだ共演した、猫みたいに笑みを浮かべ、すごく楽しそうに身体を動かす人と、電車の中で話をする。彼女の人物描写がすごく的確。もやもやとしていたことに新しい色が加わり解像度がミリリと増す。チリチリしていたことが、もうちょっと別の立ち上がり方をする。
白のダッフルが似合うと言ってもらったことが複雑だけれどとてもうれしい。
0212
ネガティブな記事を一番上に置いておくのってけっこう落ち着かない。
だからってわけでもないんですが
だからってだけでもないんですが
終演したら書こうと思っていたことをちろっと書きます。
わたし、ちょっと前まで、範宙遊泳という劇団の芝居に出演していたのですが、観に来てくれた脚本家・演出家の後輩がこの芝居や劇団についてコメントをくれたんです。それは辛辣なものだったけど、僕はそれすごく正しいな、と思って。
で、一方。
範宙遊泳の脚本家・演出家・主宰の方が言ってることややってることについても、やっぱり僕はそれ正しいんじゃないか、と思えてならないんです。
2人の主張はたぶん矛盾するもので、そして正しさの量を比べたらどちらかが勝つ。
でもわたしは、矛盾したままどちらも正しくていいんじゃないかと思うのだ。
そういうはっきりしない自分のスタンスに気づいてしまうと、このブログみたいにWebでものを言うのが難しくなってくる。わたしがひとつの価値観をすべてに適用するようなシンプル小僧であったときとは、ちょっと勝手が異なってくる。
とか言うほどなにか自分の中で変わったってことでも、ないんですが、そういう漠然とした問いに対して、なにか答えを見つけてあげたいなぁと思って、ここに挙げておくわけです。
わたしはこのブログにわたしの一面だけでなく、いろんな面を乗っけていきたい(不可能だとしても、理念として)のです。たとえばすごくいいことがあったら、誰かが友達に思わずメールしてしまうように、ここに書きたいのです。くだらんことも、いやなことも、乗っけていきたいのです。社会人のルールを守った上で、それをやりたいのです。
だからってわけでもないんですが
だからってだけでもないんですが
終演したら書こうと思っていたことをちろっと書きます。
わたし、ちょっと前まで、範宙遊泳という劇団の芝居に出演していたのですが、観に来てくれた脚本家・演出家の後輩がこの芝居や劇団についてコメントをくれたんです。それは辛辣なものだったけど、僕はそれすごく正しいな、と思って。
で、一方。
範宙遊泳の脚本家・演出家・主宰の方が言ってることややってることについても、やっぱり僕はそれ正しいんじゃないか、と思えてならないんです。
2人の主張はたぶん矛盾するもので、そして正しさの量を比べたらどちらかが勝つ。
でもわたしは、矛盾したままどちらも正しくていいんじゃないかと思うのだ。
そういうはっきりしない自分のスタンスに気づいてしまうと、このブログみたいにWebでものを言うのが難しくなってくる。わたしがひとつの価値観をすべてに適用するようなシンプル小僧であったときとは、ちょっと勝手が異なってくる。
とか言うほどなにか自分の中で変わったってことでも、ないんですが、そういう漠然とした問いに対して、なにか答えを見つけてあげたいなぁと思って、ここに挙げておくわけです。
わたしはこのブログにわたしの一面だけでなく、いろんな面を乗っけていきたい(不可能だとしても、理念として)のです。たとえばすごくいいことがあったら、誰かが友達に思わずメールしてしまうように、ここに書きたいのです。くだらんことも、いやなことも、乗っけていきたいのです。社会人のルールを守った上で、それをやりたいのです。