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 中二病・人権編

この話前にも書いたっけ。
 最近、すっごい恣意的に、クモを見ても殺さないようにした。しかし蚊は今まで通り殺す。この境目(前はどちらも殺していた)とか、その移動とかが、すっごい「なんなんだろうなぁ~」と思う。
 ってのは、黒人の人権とか、女性の人権とか、子供の人権とか、障害者の人権とか、胎児の権利とか、犯罪者の権利とか、権利の内容は様々だけど、個体の権利ってものはホモサピエンスという母集団の中で拡大する流れにあるような気がしている。しかし、ホモサピエンスという枠の外での権利を考えると、突然地球規模に発展してしまうような気がしていて、動物や植物を含めた生物とか、テレビや鉛筆などの無生物に権利を考えるという発想は中々ないというのが、別に屁理屈が言いたいわけではなくて不思議に思う。いや僕が知らないだけで実際はあるのかもしれないが。
 鉄腕アトムの世界でロボットに人権を云々という話があった気がするのだが、それって、ロボットという、無生物でありながらココロ的なモノを有する存在に対して、既存の僕らの人権に関する常識が通用しない境界線に抵触しているからドラマになるのだと思う。
 歴史はほとんど知らないが、昔、将軍のペットが町民よりも権利が保障されてたなんていうビックリな時代もあるみたいだし、ホモサピエンスの枠に絶対的な根拠はおそらくないんだろうけど、でも事実現象として、今の世界の大勢は、ホモサピエンスの枠内に人権を充填しようという流れになっているのではないか。
 そうなると問題(疑問)は2つあって、1つは、そんなこと言いながら人権が守ってもらえない人たちがやっぱりどうしようもなくいるということ。なくなりはしないこと。それは一体どんな人たちなんだろうかということ。それからもう1つは、そもそもそういう世界の大勢(信念の一種だろう)は、いかにして形成されるに至ったのかということ。それが知りたい。こういうことはもう当たり前のことであって、それについて疑問を呈することがもう非常識な行為だと認識されてしまうような認知構造。はて。
 僕は自分について、この認知構造がどれだけ当てはまるか、まだよく分かっていないところがある。疑問は持ちながら、そういう信念をまったく持たないかというと、そんなことはない。そういうヒューマニズムにはむしろどっぷり漬かっている方だろう。しかし、というか、僕は、だからこそこの認知構造を疑いたい。別に間違いだと証明したいわけではなくて、ただなぜそんなものがあり、そんなものがあることがこの世界にどう影響を及ぼしているかが知りたいのだ。
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 裸眼の世界

人と人との接触
全体を支配する力動と個人の動向
螺旋と回転
肉声
生肉
むしろ視覚的なものは運動の支配下に
テープ声
ローファイ
往復・反復
繰り返し・リピート
少しずつ変わっていく様
伝播・感染
境界・バウンダリー
広田の法則と化学反応実験室
自由度と役者の頭
偶然に揃うコマンドの発動
息・呼吸の仕方
身体を縦に貫く軸
ペンがグニャグニャ曲がって見える現象
力と力の接触・拮抗・弾ける
芝居における演技との混ぜ方
身体言語

耳に入るべく生まれたものはすべて楽器

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 パラグラフ4

1.このブログのカテゴリについて。

カテゴリの「パラグラフ」と「日記」の境界があやしくなっている。
今まで書いてきたブログを内容によって「パラグラフ」「日記」「メモ」に分け、
日々の出来事を単に記録する役割を「メモ」に、
日々の出来事に触発されて考えたことを「日記」に、
日々の出来事と関係ないところで考えたコラム的なものを「パラグラフ」に、
といった区分を目指してたはずなのだが、「日々の出来事との関連性」という
基準は僕の中でとっても曖昧で、現在のところ、ほとんど機能していない。

実際のところ、ある程度まとまり(バウンダリー)が見える文章をパラグラフにして、
まとまりがない文章が出てきたら、日記の名前で言い訳をしてるくらいの意識がある。
これはちょっと見直す必要があるな。

2.試行錯誤の使い方について。

なにか意図があって始めたなにがしかのことが、実際やってみたら予想通りに
行かないときに、出発点が悪すぎたのだと後ろを責めることを、する必要がある場合も、
そうでない場合もある。
思うに、軌道修正の利く程度が強いほど後者に寄る。
そしてこのブログなんてのは97%後者に寄っているもんだろう。どんどん修正すればいい。
僕はこれを、試行錯誤と呼んでみる。少し使い方が間違っているかもしれない。
どんな場合でもそれができるとは決して限らないが、試行錯誤はよりよいやり方を
見つけるための間違いなく1つのやり方だ。
ただし、この方法にも弱点やら限界やらがあって、柔軟性がなかったり、
あるいは資源が足りなくて、軌道修正に膨大な時間がかかったり、
あるいは実質的に不可能な場合がある。
だから僕はね、試行錯誤という作戦を、自分が物事に向かう1つの道具として
懐に入れながら、その道具がどのような条件で生かされあるいは殺されるのかについて
模索しなければならないし、それを使おうとしているまさに状況において、
どれだけ条件が恵まれているかを見積もらねばならない。
そして時には、下位目標として、条件の改善を立てる必要があるだろう。

仮説検証・修正を繰り返す作戦と試行錯誤作戦の関係についてはまたあとで考えよう。

3.量的な問題の抱える問題について。(前置き)

世の中には影響関係にある2つの変数がごまんとあるが、そいつらが単調関係に
あるかというと、そうとも限らないこともごまんとある。
単調関係というのは、僕の知ってる範囲では、一方の変数が増減するにつれて、
もう一方の変数も増加あるいは減少の、決まった方向に変化する、というものだ。

例えば、ボールを投げる「速度」と「飛距離」を2つの変数とした場合、
その他の条件が等しければ、投げる速度が大きいほど、飛距離も大きくなるし、
速度が小さいほど、飛距離も小さくなる。
これは2変数が増加-増加(or減少-減少)の関係にあり、
単調関係の中でも「単調増加」と呼ばれる。
他の例をあげれば、一定の金額を山分けするときの「人数」と「分け前」を
2つの変数とした場合、人数が多くなればなるほど、分け前は減る。
人数が少なくなればなるほど、分け前は増える。
これは2変数が増加-減少(or減少-増加)の関係にあり、
単調関係の中でも「単調減少」と呼ばれる。

単調関係の話はただの前置きだ。
世の中には単調関係でない関係も山ほどある。そっちがこの話の主役なのだ。
「非」単調な関係の中で、「U字型」と呼ばれる関係がある。
僕が取り上げたいのは、この「U字型」をさらに少し変形させた、「ナイキ型」関係だ。
ナイキ型なんて、そんな言葉はないのだが、普通、U字が左右対称であるのに対して、
左右対称でなくしたものがナイキ型だと思ってくれればいい。
イメージするための造語だ。

(こういう、わかりやすさを目指した文章を書いていると、大抵どっか途中で
飽きるポイントが来る。今回はここでそれが来た。なぜ飽きが来るんだろう?
この文章が冗長だからか?あるいは、書いてる内容とは関係なく、単に
僕の集中力が低いという問題なのだろうか?よく分からない。)

話したいのは、この「ナイキ型」関係のことなので、「U字型」関係については特に
説明しない。2変数がナイキ型関係にある場合、一方の変数を低いところから
だんだんに増やしていくと、もう一方の変数は一旦下がる。
しかし最初の変数をそのまま増やして増やしていくと、
一旦は下がったもう一方の変数が今度は上昇を始め、やがて元の値よりも大きくなる。

「ナイキ型」をそっくりそのまま上下に反転させた、「逆ナイキ型」の関係も、ある。
この場合、一方の変数を低いところからだんだんに増やしていくと、
もう一方の変数は増加する。しかし、ある点を越えてもなお最初の変数を増やしていくと、
増加していたもう一方の変数は減少に転じ、やがて元の値よりも低くなる。

4.量的な問題の抱える問題について。(本題)

努力と成果の関係について、上で説明してきた2種類の関係をあてはめてみようと思う。
すなわち、「ナイキ型」と「逆ナイキ型」だ。
努力と成果がナイキ型であるようなものについては、
ある程度までやりきることが重要となる。
中途半端なところでやめてしまえば、それまでに費やした努力が無駄になるばかりか、
結果としてマイナスの影響を与えることもありうる。
逆に、努力と成果が逆ナイキ型であるようなものについては、
ほどほどにしておくことが重要となる。
ある程度までは努力と成果が対応しているのだが、
その夢を欲張りすぎると破滅することになる。

世の中にはこういう、単調でない関係のものが沢山ある。
それなのに、あたかもそれらが単調増加の関係にあるかのように仮定して動くと、
それは偶然の確率で不幸なことになる。
特にナイキ型の場合、途中で脱落するということは普遍的に生じえる現象だからして、
あたかもそれらが単調減少であるかのように認識されてしまうこととなる。
それは、ナイキ型の終点にある高みを否定することにつながる。

5.まとめ

一番書きたいことは4番で、そのための準備として1~3を書いてみたのだが、
見直してみるとどうにもいまいちすぎる。
書き直すのは面倒くさいし、消してしまうのは勿体ないので、
これ以上手を入れずにアップする。
それによって、面倒で冗長な記事を読むことになった閲覧者が
負の効果を受け取ったとしたら、これはまさにコストをかけただけ損であって、
僕はもうひと手間かけて、推敲するか、あるいは、削除ボタンを押すべきなのであろう。
ナイキ型だ。

でも僕自身は、このいまいちすぎる文章を書いた意味はそれなりにあると思っている。
ひとつは、自分の表現能力のいまいち具合を実感できたということ。
もうひとつは、多分これは、同じ目的の試みを将来行うときに土台になるであろう
ということだ。

おしまい。
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 パラグラフ3

「言葉=Function(シニフィエ,レトリック);」

・かたちになる言葉というものを考えるときに、シニフィエ的なものとレトリック的なものの2変数の関数として考える、ということをよくする。この関数は恣意的でかつ複雑だ。

・これは、僕の頭の中にある、人が喋る・紡ぐ言葉というものはこんな構造になっているんじゃないか?という、その構造に基づいている。この構造はとっても不完全なものだが、ある種の現象を説明したり理解するのに役立つことがある。

・ここでシニフィエ的と呼んだものは、その言葉が表す最も基本的な意味内容を指す。辞書的と言ってもいい。言葉からそのシニフィエ的な要素を推定するのは、多くの場合そんなに難しくない。ただし、レトリックの要因によって言葉は形式的にも変形するので、シニフィエがまったく読み取れない場合もある。

・因みに、「シニフィエ」という言葉は言語学の用語から拝借したのだが、僕は言語学をまったく知らないので、言語学本来の使われ方からするとおおいに間違ってる可能性があることをお断りしておく。

・ここでレトリック的と呼んだものは、シニフィエを表すための最低限の言葉に、様々なニュアンスを付け加える元になっているものを指す。言葉の字面自体を変形させることで表れることもあれば、話し言葉ならば言い方に、書き言葉ならば字体や漢字・カナの選択、あるいは顔文字などに表れることもある。

・この構造を仮定した上で、出力としての言葉から逆関数を解き、その言葉の背景にあるシニフィエ的なものや、レトリック的なものを同定しようと試みることがある。あるいは逆に、入力として宣言されたシニフィエとレトリックから、適切な出力である言葉の具体例を探すことがある。

・こういう類の話をまとめて有人のコンテンツにしようと思っている。ここでそういうものを書くのはその試作なのだろう。だから最低限これは書いておきたいというところまで書いて終わりにする。書きたいことというのは、レトリックの役割についてだ。

・レトリックというのは、望むにしろ望まないにしろ、なんらかの形で言葉に表れる。レトリックを排するというのも、ひとつのレトリックに他ならない。だから僕は、「レトリックを操作するときには、なんのためにそれをしているのかを考えて、その状況下での目的に応じて、適切なレトリックを宣言する」という考え方が重要だと思う。

・レトリックの機能は多岐に渡る。言葉に占めるレトリック要因の強さは様々な場面で見ることができる。ざっと挙げても、(1)シニフィエの伝達を促進する、(2)話し手の関心を反映する、(3)相手に与える自分の印象を操作する、(4)話し手と聞き手の関係を表す、などがある。僕がレトリックについて思いを巡らす場合、1番のことばかりを考える癖があるのだが、一般的な世の中の人は、むしろ2番だか3番に大きな比重をおいているように思われる。

・と、とりあえずここまで書いて筆を置こう。

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 パラグラフ2

「脳内で中二病が増殖してる件について」

要するに、思考というか発想がもの凄く狭い部屋の中で自家中毒を起こしている。
囲ってる、壁のようなものを取っ払う/ぶち壊して、逃がしてやる必要がある。
以下、それと、それからの脱出の試みが入り混じったもの。

 正面から相手の顔を見て話をするのはすごい苦手。でも電話は分からなさすぎて却って不安。適切な濃度がある。現在社会で生きるため、個人差を埋めるには演技力が必要。演技力というのは1つの能力ではなくて、異なった複数の能力から構成される概念。知力ってのが、全然関連の無い複数の能力をひとまとめにした概念であるのと同じく。自己変数を操作するのも演技力の1つだし、他者が受け取る刺激を調整するのも別の演技力。(体言止めを連発する。)
 自分以外の誰かとコミュニケーションする様々な手段について考える。直接対話/電話/携帯メール(文字に絵文字に顔文字に写メやデコメ)/電子メール/ブログ(記事にコメントにトラックバック)/公開ブックマーク/メッセンジャー/掲示板/ウェブ拍手/メールマガジン/メーリングリスト/ワードにエクセルにパワポ/置き手紙/手紙/講義/本/実習報告書(考察にコメント)/小説/詩/戯曲/芝居/映画/その他の芸術作品/ノンバーバルなもの(接触に非接触)。手段と言って媒体まで範囲を広げるならば、シチュエーションや話題もそれに含めたくなる。喫茶店/映画館/劇場/稽古場/カラオケ/ゲームセンター/本屋/ボウリング場/ビリヤード/居酒屋/レストラン。音楽/小説/芝居/映画/漫画/貸し借り/お礼もお詫び/プレゼント/お誘い。(僕の問題な癖の1つは、物事全体を描写しようとする時に、文脈を破壊して見えなくしてしまう並列的記述に流れてしまうことだ。)
 コミュニケーションの目的というものは、その形態よりはもっと抽象的で(ノンバーバルなものを除いて)それほどはっきり分からない。あなたのことが、あなたの表現するものが分からないことが苦痛だからか?それは、あなたのことを理解したいと思うことから来るのか、それとも非特異的に目の前に出されたもの全てを理解したいというプライドから来るのか?あなたのことを理解することで、あなたに好かれたいのか?それとも、ぼくのことを、ぼくの表現するものを理解してほしいのか?あなたのことを理解することで、あなたにぼくを理解してもらうために、より適切な表現を見つけられると思っているのか?ただ表現したいだけなのか?それとももっとそれ以前に、ぼくのことに興味を持って欲しいのか?ぼくに興味を持ってもらうために、より適切な表現を見つけられると思っているのか?(また並列的に記述する。ストーリーやプロセスや重要性の重みづけや関係性といった要素が抜け落ちることは大きな損失だ。)

 知人が少し遠くに行くらしいので、っていうことで、MSNのメッセンジャーをインストールしたのだが、押すことが全くメリットをもたらさないボタンでごてごてと装飾されていて、めっちゃくちゃうんざりした。こういうの全部取っ払って、単純化できんものかしら。そもそも不意打ちで広告とか動画とか、とても苦手だ。油断してるとなおさら。心臓に悪いとまでは行かないが、明らかに心的なエネルギーが削られる。、、そんなことを書きながら、そんなに脆弱でどうすんの!?と自分に呆れた。

外在化による脱出にも、限界があるのだということが、薄々分かってきた。
ネガティブダイナミクス・リミテッド。

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